4年前のアテネ五輪で日本は16個の金メダルを獲得した。これは1964年の東京五輪と並ぶ最多タイ。全体のメダル数37個は過去最多で、東欧諸国がボイコットした1984年のロス五輪を5つも上回った。

 このように大きな成果を上げたアテネ五輪だが、素直に喜べない面もあった。獲得した16個の金メダルのうち、実に15は個人。団体で勝ったのは男子体操だけ。だが体操の場合、個人が挙げたポイントの合計であるため、これも実質的には個人の勝利といえる。男子サッカーの「山本ジャパン」や女子バレーの「柳本ジャパン」あるいは野球の「長嶋ジャパン」など「〜ジャパン」はいずれも期待はずれの結果に終わった。

 かつて団体競技は女子バレーや男子バレーを持ち出すまでもなく、日本のお家芸だったはずだが、なぜかくも弱くなってしまったのか。その理由はいくつもあるが、とりわけ強力なリーダーシップを持った指揮官の不在が大きい。“東洋の魔女”を率いて東京五輪で金メダルを獲った大松博文氏のようなカリスマ性を持った指揮官はもう二度と現れないのかもしれない。
 そんななか、最後のカリスマ的指揮官になれる可能性を秘めたリーダーが野球日本代表監督の星野仙一である。

 昨年12月に台湾で行われた北京五輪アジア予選では、難敵の韓国、台湾を撃破し、北京五輪の出場権を勝ち取った。もし、この大会で出場権を取れなかったら、日本は3月に台湾で開催される世界最終予選に回らなければならないところだった。
「ホッとした」という星野監督のセリフは、まぎれもない本音だろう。

 野球が五輪の正式種目になったのは1988年のソウル五輪からである。日本は野茂英雄、石井丈裕、古田敦也、潮崎哲也ら、その後、プロで活躍する錚々たる顔ぶれで臨んだが、銀メダルに終わった。
 続くバルセロナ五輪も銅メダル、アトランタ五輪は銀メダル、松坂大輔や中村紀洋らプロの一線級が参加したシドニー五輪はメダルなしに終わった。
 この反省をもとに4年後のアテネ五輪はオールプロで臨んだが、長嶋茂雄監督が脳梗塞で倒れたこともあり、銅メダルに終わった。

「シドニーを除いて、毎回メダルを獲得しているのだから、大したものじゃないか」
 そんな声もあるが、米国はメジャーが五輪に背を向けている。メジャーリーグに次ぐ実力を誇るプロリーグを持つ日本が、プロの一線級が参加するようになってからも表彰台の真ん中に立てないのは、やはり不甲斐ないと言わざるをえない。

 これまでの日本代表に奢りはなかったか。アテネでは本番5カ月前の3月に長嶋監督が倒れたというのに、後任人事に着手しなかった。代表監督の人事権を持つ日本代表編成委員会の長船騏郎委員長に至っては「病室から電話でも指揮が執れる。長嶋さんには決勝トーナメントから指揮を執ってほしい」と無責任な言葉を口にした。
 結局、日本代表は監督経験のない中畑清ヘッドコーチが指揮を執り、オーストラリアに2度続けて負けるという失態を演じた。予選リーグは通過することが第一の目的であるはずなのに、全勝を目標に掲げた。
 予選リーグの段階では隠すところは隠しておかなければならない。手の内を全てさらけ出してしまっては相手を利するだけだ。

 情報戦でも後手に回り、先発投手が漏れていたような気配もあった。敢えて厳しい言い方をすれば、オリンピックを舐めていた。そうでなければ同じ相手に2度も続けて負けるはずがない。
 台湾での韓国戦、プレーボール直前になって韓国はスタメンを大幅に入れ替えてきた。明かにマナー違反である。

 これは日本の先発を読み切れなかった証拠である。韓国は当初、先発を右のダルビッシュ有と見ていた。だから1、2番に左打者を揃えた。
 ところが試合開始1時間前に配られたオーダー表で左の成瀬善久が先発だと知る。仰天した韓国は急遽、1、2番を右打者に切り替えた。韓国ベンチの慌てふためきぶりが手を取るように伝わってきた。
 初戦のフィリピン戦から先発投手を隠すように星野監督に進言したのは大野豊投手コーチである。アテネでも投手コーチを務めた大野には「4年前は情報戦で遅れをとった」との苦い記憶があった。それが台湾では生きたのである。

 もちろん急遽チームをまとめ上げた星野監督の手腕も大きい。
「任せるところは任せてくれるのでやりやすかった」とは大野コーチ。過酷な戦いを経て、星野監督もまた一回り成長したのかもしれない。

<この原稿は08年月号『Voice』に掲載されたものです>

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