最後まで集中力を切らさず、闘争心を失わず。

 森保ジャパンは3月25日の親善試合、韓国代表戦に3-0と快勝すると、中4日で臨んだカタールワールドカップアジア2次予選、モンゴル戦に14-0という記録的な大勝で最終予選進出に王手を掛けた。

 チームの気持ちが伝わってくるようだった。

 韓国戦後の会見で森保一監督はこのように語っていた。

「コロナ禍でいろんな制限を強いられて困難な生活をしている方々が多いなか、サッカーをやっていいのか、大規模なイベントをやっていいのか、反対意見があることも認識しています。そのうえでサッカーが社会貢献できることを認識してもらえれば嬉しいと思って、やってきました」

 感染予防対策で練習や試合以外では選手同士の接触も限定されたなか、“日本代表チームの使命”をモチベーションとしていた。ライバルの韓国を相手に3得点、そしてワールドカップ予選で14得点というのも素晴らしいが、無失点に封じたことも高く評価できる。森保監督のマネジメントは素晴らしかった。

 

 ピッチに目を向けると、今後のレギュラー争いが楽しみなポジションが出てきた。

右サイドバックである。

 絶対的なレギュラーの酒井宏樹(マルセイユ)と代表に定着してきた室屋成(ハノーファー)を招集できなかったことで、不安視されたポジションでもある。

 蓋を開けてみれば、不安どころか期待が広がった。

 韓国戦で先発した山根視来(川崎フロンターレ)は積極的な攻撃参加から先制点を奪い、タイトな守備を披露。また、モンゴル戦で先発した松原健(横浜F・マリノス)はグラウンダーのクロスから南野拓実の先制点をアシストすると、オウンゴールの誘発など得点に何度も絡んだ。後半アディショナルタイムには、裏に抜ける浅野拓磨のスピードに合わせてパスを出してアシストしている。

 

 流れのなかで、ボランチの位置に入って攻撃の組み立てを担い、パスでスピードタイプの選手を活かすのはF・マリノスでも得意としているところ。後半にはシステム変更に伴い、アンカー横のスペースもケアしていた。大勝の影の立役者と言っていい。

 

 山根も松原もA代表デビュー戦だが、背景はそれぞれ違う。山根はA代表に初めて呼ばれて即デビューという形。一方の松原は6年半ぶりの復帰。代表デビューには、並々ならぬ思いがあったはずだ。

 松原はアルビレックス新潟時代の2014年9月、ハビエル・アギーレ監督の初陣に初めて招集された。リオデジャネイロオリンピック代表候補でもある期待の星は当時21歳。だが試合での出番は訪れなかった。11月の親善試合2連戦でも、ピッチに立つことはなかった。

 このときのホンジュラス戦では内田篤人が右ひざ痛から代表に復帰し、90分間フル出場を果たしたことが話題になった。6-0という展開でも、お呼びが掛からなかった現実を受け止めるしかなかった。

 松原はこう語っていた。

「A代表に入れたことでモチベーションは上がったし、トレーニングでも自分のギアが上がっているなっていう実感がありました。いい刺激の連続でした。でも篤人さんがテーピングを巻いてプレーしているなか、大差になっても自分は代わって出られないんだ、と。自分の実力不足を思い知らされたし、A代表の実力ではないんだと思いました」

 

 落ち込んだわけではない。むしろモチベーションの種とした。

 リオオリンピック出場とともにA代表デビューは彼の新たな目標になった。

 しかしながら--。翌2015年春に右ひざ外側半月板損傷の大ケガを負い、長期離脱を強いられてしまう。痛みが消えず、再手術にも踏み切ったほど。リオの最終メンバーに届かず、A代表も遠のいた。

 2017年シーズンにF・マリノス移籍。「タイトルを獲るために」横浜にやってきて、その言葉どおり2019年のJ1制覇に大きく貢献した。サイドバックが中に入ってボールをさばく役割を担い、J1のなかで新たなサイドバック像を示している一人になった。

 28歳の代表デビューは遅いほうだろう。

 だがあのときに実力不足を痛感したからこそ、大ケガを克服して、F・マリノスで飛躍して再びサムライブルーのユニフォームに手が届いたのだ。

 森保ジャパンの右サイドバック争いは、熾烈になる。それがチームの活性化につながることは言うまでもない。


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