岸川登俊(白寿生科学研究所人材開拓課)第123回「私が見てきた超一流の男たち・高橋由伸・その2」
皆様、白寿生科学研究所の岸川です。年明けに発令された2度目の緊急事態宣言が3月21日に解除になりましたが、ここ最近は変異株ウイルスが拡大するなど予断を許さない状況です。春の暖かさに誘われてお花見など外出したくなりますが、必要以上の外出は極力控え感染予防に努めましょう。
今年はNPBやJリーグなど、今までとは異なるキャンプ期間を過ごしました。感染拡大防止のため球場は無観客、球団関係者はホテルと球場の往復のみで外出は禁止と色々な策を講じてキャンプ・オープン戦を乗り切りました。そういった日々を過ごした中でのシーズンの開幕、今年はどんなドラマが待っているのでしょうか? そして近い将来スタジアムの観客数の上限も緩和され、沢山の野球ファンでスタジアムが埋め尽くされることを切に願っております。
今回は前回に引き続き、私が練習パートナーを務めていた、高橋由伸の現役時代、特に個人練習の裏話を書きたいと思います。
まず改めて高橋由伸という人物について述べておけば、彼は10年に1人の天才とマスコミや多くのメディアに取り上げられていました。しかし私が高橋の個人練習パートナーとして付き合い感じたことは、自分に与えられた期待に応えるための「準備と継続を怠らなかった」の一言に尽きます。
バリバリのレギュラーだった時代と控えの時代では、量や回数こそ変化しましたが、彼はいつでも自分で決めた練習メニューに黙々と取り組んでいました。
小久保裕紀選手の章で書きましたが、キャンプの全体練習終了後、彼らは2~3時間かけて数種類の個人練習メニューを室内練習場で行い、バッティングフォームをつくり上げていきました。汗びっしょりの全身からはオーラのごとく湯気が立ち上り、個人練習後の手はテーピングだらけで、革手袋こそしていますがマメは潰れ血で赤く染まっていました。
個人練習中のあの空間は何人たりとも近寄りがたい異様な雰囲気で、コーチも見に来るだけで話しかけたりしませんでした。
「自分はコーチではないが…」
さてプロ野球の長いシーズンにおいて選手には調子の波があります。あるシーズン、高橋由伸が調子を特に落としている時期がありました。本人は試行錯誤しますがいい結果が出ない。私の中では「これが原因ではないか?」というものがありましたが、コーチでもない私が意見するのはどうかと悩んでいました。
ですが、この練習を見ているのは私1人だけです。その後、一向に調子が上向かない状況にしびれを切らした私は、何を言われてもいいから「これが原因ではないか?」と自分の意見を伝えました。
彼は私の意見を聞き入れてくれ、そこの修正に取り組み、その後は復調の兆しが見え打撃内容が良くなり、安打も増えていったのです。そのことがキッカケで私と彼との距離が縮まり、練習パートナーとして信用してもらったように思います。
なぜ、私は彼の不調の原因を当てることができたのか? 私は彼の打撃フォームを良いときも悪いときも同じ角度から見ています。そうすると私の頭の中でフォームがどんどん記憶されていき、私なりに状態の区別がつくようになっていたのです。解かりやすく言えばフォームの間違い探しをして、それを伝え、修正を繰り返す。そうやって意見交換をしながらシーズンを戦っていました。
最高に状態が良いときは、ボールとバットが当たっている時間が長いのです。ほんの0コンマ何秒という時間で、誰にも見分けなど出来ないと思いますが、毎回見ていたことで私はそのほんの少しの誤差を見分けられるようになったのです。プロ野球選手の良い状態というのは長くても10日程しかつづきません。しかも、シーズン中に1回か2回程しかないのです。残りは少しでも良くなるように、修正の繰り返しをしながらシーズンを戦っていたのです。
また好不調を見分けるもうひとつのポイントは打球音です。私たちはホームゲームの場合、東京ドームのブルペンで練習を行っていました。同じ空間で練習することで打球音の響きが厚いとか薄いといった感じで、お互いが調子に気付くようになりました。そういった準備と継続力で毎日積み重ね、そして試合に臨んでいました。
その後、彼は腰のケガなどで長期にわたり戦列を離れることがあったり、晩年はスタメン出場の機会も減りましたが、それでも準備は怠らず、訪れるであろう出番のために練習と準備を繰り返していました。そうした彼の行動には本当に頭が下がる思いでした。同時に彼のそんな姿を見ながら、自分自身がプロの世界でなぜ活躍出来なかったのか……。その理由を痛感したものです。
<岸川登俊(きしかわ・たかとし)プロフィール>
1970年1月30日、東京都生まれ。安田学園高(東京)から東京ガスを経て、95年、ドラフト6位で千葉ロッテに入団。新人ながら30試合に登板するなどサウスポーのセットアッパーとして期待されるも結果を残せず、中日(98~99年)、オリックス(00~01年)とトレードで渡り歩き、01年オフに戦力外通告を受け、現役を引退した。引退後は打撃投手として巨人に入団。以後、17年まで巨人に在籍し、小久保裕紀、高橋由伸、村田修一、阿部慎之助らの練習パートナーを長く務めた。17年秋、定年退職により退団。18年10月、白寿生科学研究所へ入社し、現職は管理本部総務部人材開拓課所属。プロ野球選手をはじめ多くの元アスリートのセカンドキャリアや体育会系学生の就職活動を支援する。