(写真:リーベルプレートの菅野拓真はフォワードとして先発出場した)

 フェルナンド・デ・ラ・モラの要田勇一、グアラニの福田健二に加えて、パラグアイの首都アスンシオンにはもうひとり、Jリーグ所属経験のある日本人選手がいた。菅野拓真である。

 

 1980年生まれの菅野は身長188センチというフォワードである。習志野高校では、日本代表となる玉田圭司とチームメイトだった。高校卒業後の2000年、ジェフ市原に入団。その後、ヴァンフォーレ甲府、湘南ベルマーレなどでプレー。2002年からパラグアイリーグ2部のドセ・デ・オクトゥーブレに移籍した。

 

 ぼくはセロ・ポルテーニョに所属していた廣山望を追いかけており、菅野とも親しく会話するようになった。菅野と廣山は同じ習志野高校出身だった。ただし、菅野は廣山の3学年下となり、在学時期は重なっていない。

 

 菅野とはフットサルチームを組んで大会に出たり、クラブが決まらない選手たちを集めた練習に参加したこともあった。長身が目につきがちだが、左右両足で、柔らかくボールを扱えた。十分にJリーグでやっていける選手のはずだった。そうならなかったのは、彼のフォワードらしからぬ穏やかで優しい性格のせいだった。

 

 このとき、菅野は2部リーグのリーベルプレートというクラブに所属していた。アルゼンチンの首都ブエノスアイレスに本拠地を置く同名の名門クラブと関係はない。

 

 この日、リーベルプレートとフェルナンド・デ・ラ・モラの練習試合が組まれていた。ぼくは要田の弟・章と共にスタジアムに向かうことにした。

 

 試合開始時間は午後4時を回っていたが、太陽の光はやや陰ったという程度だった。30度を軽々と超える高温、そして多湿。選手には過酷な天候である。ここはサッカーの国だと実感したのは、2部リーグクラブの練習試合にも関わらず、観客が集まっているのを見たときだった。観客を目当てに頭にチーパ――パラグアイ式パンの入った籠を乗せた売り子も出ていた。

 

 14番を付けた菅野は先発、要田は控え選手としてベンチに座っていた。コーチのハシモトによると、要田は後半から出場するという。

 

 暑さに加えて、荒れたピッチのせいもあるだろう、試合内容は雑だった。

 

 特にリーベルプレートはチーム内の決まり事が徹底されていなかった。前線にセンターフォワードの菅野が待っているにも関わらず、彼の長身を生かしたクロスボールを上げる選手は誰もいない。中盤の選手はてんでばらばらにドリブルでボールを持ち込み、闇雲にミドルシュートを打った。

 

 パラグアイに限らず、ラテンアメリカでは「得点」が大きく評価される。開幕前、レギュラー当落線上の選手たちは自分たちの生き残りのため、あるいはそもそも戦術眼がないのか、リーベルプレートの選手たちは強引に得点を狙った。

 

 2人の日本人の明と暗

 

 そうした身勝手な選手たちの、しわ寄せはセンターフォワードの菅野にのし掛かっていた。中盤の選手がゴール前に入ってくるため、菅野が動く場所が消えていた。やがて菅野は、ゴール前を譲ってサイドにポジションを移した。

 

 それを見て、ぼくは歯がゆかった。ここは俺の場所だ、お前たちは入ってくるなとなぜ怒鳴らないのだ、と。

 

(写真:フェルナンド・デ・ラ・モラの要田勇一)

 後半開始、フェルナンド・デ・ラ・モラが1点をリードして、要田がピッチに入った。パラグアイの強い太陽を浴びた要田は真っ黒だった。この国の気候に慣れてきたのだろう、動きは軽い。手を挙げて、大きな声を出して前線に走り込んだ。

 

 パラグアイ人ディフェンダーの激しい当たりを正面から受けるのは得策ではない。彼らをいなす判断の速さ、敏捷性が重要だった。日本にいるときよりも少し体重を落としているようにも思えた。

 

 やがて要田の動きに味方が反応するようになった。左サイドの選手からのボールを要田が中央でシュートして、ゴールネットを揺らした。2対0である。

 

 その後、リーベルプレートが2点を取り返し、2対2の引分けで試合は終わった。

 

 ベンチに座っていたハシモトが、観客席にいたぼくを手招きした。

 

「要田は次から先発として使うよ。トップチームのレギュラーだ」

 

 にっこりと笑った。

 

 一方、存在が消えていた菅野は後半途中で交代。くっきりと明暗が分かれた試合だった。

 

(写真:アスンシオンで要田が住んでいた部屋。一時期パラグアイでプレーしていた元日本代表の武田修宏が購入したウエイトトレーニングのマシンが残されていた。左は要田の弟・章)

 この夜、要田が泊まっている淵脇隼人の家で要田、章と一緒に夕食をとった。パラグアイの食材を使った天麩羅だった。食後、要田兄弟を誘い、外に出かけて軽くビールを飲んだ。気温が落ち、心地のよい夜だった。

 

 要田のコンディションは良かった。パラグアイ2部リーグならば頭ひとつ抜けた存在になるはずだ。結果を残せば、1部リーグのクラブからも声が掛かるだろう。要田の明るい未来を確信しながら、ぼくはアスンシオンを後にした。

 

 ところが――パラグアイは一筋縄では行かない国だった。

 

(つづく)

 

田崎健太(たざき・けんた)

1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。

著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス30年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日-スポーツビジネス下克上-』 (学研新書)、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『辺境遊記』(英治出版)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社 ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『真説・長州力 1951-2018』(集英社)。『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)、『真説佐山サトル』(集英社インターナショナル)、『ドラガイ』(カンゼン)、『全身芸人』(太田出版)、『ドラヨン』(カンゼン)。最新刊は「スポーツアイデンティティ どのスポーツを選ぶかで人生は決まる」(太田出版)。

2019年より鳥取大学医学部附属病院広報誌「カニジル」編集長を務める。公式サイトは、http://www.liberdade.com


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