取材が必須であるノンフィクションの書き手にとって、取材費の調達は永遠のテーマである。

 

 きちんと取材ができる、そして売り物に足る原稿が書けることは前提条件に過ぎない。職業作家として継続していくには、金銭的マネジメント能力が必須となってくる。

 つまり、取材費の調達である——。

 

 出版社の規模によって多寡はあれど、雑誌編集部には取材費の枠がある。担当編集者の心を動かしてその「枠」を確保するか。そのためには、男女の意味ではなく、担当編集者に自分の才を惚れさせなければならない。

 

 とかく、書き手は担当編集者の愚痴を言いがちである。大手出版社を中心に不遜な編集者が多々存在することはぼくも知っている。みんなが頭を下げているのは、貴方の能力ではなく、会社の看板であり、過去の作品という作家の財産に対してなのだと思うこともある。

 

 ただ、書き手には担当編集者を選ぶ権利がある。

 

 嫌ならば担当を替えてもらう、あるいは二度と仕事をしなければいい。軽んじられないような作品を書き続けていれば、必ず肌の合う編集者と出会う。まともな編集者は、きちんとした文章を書く作家と仕事をしたいという習性があるからだ。

 

 これは元編集者としてのぼくの実感だ。

 

 話が脱線した――。

 

 1990年代の終わりから、日本人アスリートは次々と国境を越えるようになった。彼ら、彼女たちを追いかけるには、国内取材以上の経費が必要となる。このとき、まだ雑誌編集部には余力があった。ぼくは複数の編集部に掛け合って、旅費等の取材経費を分担してもらっていた。今回は、集英社の『週刊プレイボーイ』でパラグアイのグアラニに所属していた福田健二のインタビュー、小学館の『SAPIO』でブラジルの食糧事情のルポルタージュ、そして光文社で創刊準備していた新雑誌『バーサス』でアスリートの食に関する企画を通した。こうした取材にかこつけて、フェルナンド・ド・ラ・モラにいる要田勇一の様子を見に行くことにしたのだ。

 

 サッカーが人生の全て

 

 同時期、要田の弟・章がパラグアイ入りすることになった。章は静岡FCで現役引退した後、静岡市内のホテルで働いていた。ニューヨーク生活の経験があったが、南米大陸に足を踏み入れたことはない。ちょうどいい機会だと判断したという。

 

 3月2日、フランクフルトを経由してサンパウロに到着した。朝は快晴だったが、昼過ぎから雨と風で大荒れの天気になった。標高1700メートルの場所にあるサンパウロの天気は気まぐれだ。サンパウロで2泊した後、アスンシオンに入った。アスンシオンの空はいつものように青かった。

 

 1カ月半ぶりに会った要田は、パラグアイの太陽の光を浴びて真っ黒になっていた。章は先にパラグアイ入りしていた。仲の良い弟と再会して安心したのだろう、要田は嬉しそうな顔をしていた。

 

(写真:フェルナンド・デ・ラ・モラのフィジカルコーチ、日系人のハシモト)

 要田兄弟と一緒にフェルナンド・デ・ラ・モラの練習場に顔を出すと、頭をそり上げ、ぎょろりとした眼をした男が案内してくれた。トップチームのフィジカルコーチ、日系人のハシモトだった。

 

「2部にあがったばかりのクラブだけれど、みんなやる気にはやっているよ」

 

 ハシモトはにっこりと笑った。見慣れぬ顔を見つけたと思ったのか、会長がぼくのところに駆け寄ってきて、握手を求めた。温かく、勢いのあるクラブのようだった。悪くないクラブのようだと、ほっとした。

 

パラグアイではサッカーが人生の全てである、と評したのはグアラニのクラブハウスで話を聞いた福田健二だった。

 

 福田は鹿島アントラーズにいた柳沢敦、広山望と同じ年のフォワードだった。つまり、要田とも同じ年になる。

 

(写真:福田健二<右>にはグアラニのクラブハウスで話を聞いた。福田はすっかりチームに溶け込んでいた。)

 習志野高校卒業後、名古屋グランパスに加入、シドニーオリンピック出場を目指す日本代表にも選出。しかし、グランパスにウェズレイという怪物のようなフォワードが加入したこともあり、ポジションを確保できなかった。その後、FC東京、ベガルタ仙台に移籍。04年の1月からグアラニにレンタル移籍していた。

 

 すでにパラグアイ1部リーグは開幕していた。ぼくが観戦したスポルティーボ・ルケーニョ戦で福田は後半頭から出場した。

 

 入ったとたん、ロングボールに対してヘディングでディフェンダーに競り勝った。パラグアイのディフェンダーは激しく汚い。福田は全く物怖じせずに向かっていた。さらに中盤に下がってボールを受けて、攻撃を組み立てることもあった。試合はスコアレスドローで終わったが、明らかに福田が入ってからグアラニの攻撃が活発になっていた。

 

 富を掴む手っ取り早い手段

 

 パラグアイ人の中に入ってもひけをとらない程、泥臭く闘える選手という印象はなかったとぼくが感想を漏らすと、福田はそうですか、と微笑んだ。

 

「1つのミスも許されないような緊張感の中で、やっているというのは実感していますね。近所の人も、“後半20何分のあのプレーはすごかったよね”とか平気で言ってくる。ああそんなに見てくれているのかと思うと、下手なことはできない。いい意味での緊張感を持ってやれています」

 

 サッカーは最大唯一の娯楽であると同時に、富を掴む手っ取り早い手段でもある。

 

 彼らは貪欲である――。

 

「選手たちは、どこのクラブに行けば給料(基本給)が幾らで、勝利給が幾らということにはすごく敏感。あいつは欧州へ幾らの給料で行ったとか、いつもそんな話していますね。欧州に行くのは夢でもなくて現実。お金をできるだけ稼いで、自分の家族をもっと幸せにしたいと考えているわけですから」

 

 福田は以前から国外でプレーしたいと望んでいた。パラグアイ人選手と接して、もっと水準の高い国でできるという手応えを掴んでいた。

 

 すでにリベルタドーレス杯も始まっていた。グアラニはブラジルのサントスと同組だった。福田はサントスと対戦したとき、ロビーニョとジエゴたちのボール扱いの巧さに舌を巻いたという。

 

 ブラジル人の巧さに対抗するものはパラグアイ人の「激しさとボールに対する執念深さ」だと福田は言った。

 

 実際、グアラニはサントスとアウェーで対戦し、引き分けに持ち込んでいた。

 

「パラグアイでは、ボールを持ったときのプレッシャーがすごく厳しい。ボールを持った時にどこに出すのか、最低2つ考えていないと必ず潰される」

 

 要田も同じフォワードである。2部リーグのディフェンダーは、テクニックで劣る分、さらに荒っぽいことは容易に想像できた。その中で要田はやっていけるのだろうか――。

 

 2部リーグの開幕はもうすぐだった。

 

(つづく)

 

田崎健太(たざき・けんた)

1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。

著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス30年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日-スポーツビジネス下克上-』 (学研新書)、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『辺境遊記』(英治出版)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社 ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『真説・長州力 1951-2018』(集英社)。『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)、『真説佐山サトル』(集英社インターナショナル)、『ドラガイ』(カンゼン)、『全身芸人』(太田出版)、『ドラヨン』(カンゼン)。最新刊は「スポーツアイデンティティ どのスポーツを選ぶかで人生は決まる」(太田出版)。

2019年より鳥取大学医学部附属病院広報誌「カニジル」編集長を務める。公式サイトは、http://www.liberdade.com


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