(写真:久しぶりにあった要田は元気そうだった)

 2004年8月、パソコンに日程表を打ち込んでいたぼくは、まるでパズルのようだと、ため息をついた。 

 

 成田を出て、ロサンゼルス経由でサンパウロに到着。4時間後の飛行機でパラグアイの首都アスンシオンへ。アスンシオンでブラジルのビザを取得した後、サンパウロに戻る。ブラジルでは、バスを使ってサンパウロ州内の田中マルクス闘莉王の実家、その後、飛行機でポルトアレグレに飛び、元ブラジル代表のドゥンガに取材。

 

 その後、サンパウロから大西洋を越えて、ポルトガルのリスボンへ。飛行機を乗り換えてスペインのラ・コルーニャに入る。デポルティーボ・ラ・コルーニャのゼネラル・マネージャーのリチャードたちに取材した後、バルセロナに移動。バルセロナの空港で、日本から来る写真家の西山和明さん、光文社の編集者、樋口健君と合流。レンタカーで国境を越えてフランスのニームへ。ニームでハンドボール日本代表の田場裕也選手の取材。再びバルセロナに戻り、ミュンヘン経由で帰国――。

 

 一定距離まで一筆書きで回れば同一料金という、スターアライアンスの世界一周チケットを使って、光文社の「VS」、集英社の「週刊プレイボーイ」などの取材を詰め込んだのだ。

 

 この中で1カ所だけ削ることのできる移動があった。それは、サンパウロに入る前のパラグアイ滞在だ。日本の領事館でブラジルビザを取得すると最短でも1週間。パラグアイならば翌日には発行されるという理由で経由地に入れていたのだ。

 

 もっとも、わざわざアスンシオンに立ち寄ったのはビザ取得だけではない。パラグアイリーグ2部、フェルナンド・デ・ラ・モラに所属する要田勇一と会うためだった。

 

 地球の裏側にあるパラグアイのインターネット環境は貧弱だった。パラグアイの新聞をインターネット経由で読むことは可能だったが、情報量は僅か。そして2部リーグの試合結果は報じていない。そのため、要田の面倒をみていた淵脇隼人からのメールと電話だけが頼りだった。淵脇によると、要田の出場機会は試合終了間際の途中出場がほとんどだという。はっきりと言わなかったが、監督から評価されていないようだった。言葉が通じないこともあるだろう、練習中、要田がパラグアイ選手の胸ぐらを掴んだこともあったと聞かされていた。

 

 パラグアイ人、とくにサッカー選手は、貧しい家庭出身が多く、十分な教育を受けている人間はごくわずか、である。世界どこであっても、知性の不足は狭量さに繋がる。日本では美徳とされる謙虚さ、慎み深さを彼らは理解できないのだ。要田は決して乱暴な男ではない。余程腹に据えかねることがあったのだろう。自分たちと違った文化背景を持った要田をからかったり、失礼な扱いをしたことは想像できた。パラグアイのような荒っぽい世界では自己主張することは悪くない。要田はまだ戦う気持ちがあるとも思った。とにかく、彼と顔を合わせて直接、話をすることだ。

 

 8月20日夜7時、ぼくはバリグブラジル航空8837便で成田空港を出発した。ロサンゼルス空港のトランジットルームで1時間ほど待たされた後、入国審査を受けた。9・11以降、アメリカ入国が厳しくなり、その手続きは頻繁に変更されていた。再び、飛行機に乗り、サンパウロに向かった。

 

 監督交代で状況は好転

 

 サンパウロには朝6時過ぎに到着した。日本を出て、すでに23時間が経っていた。南半球のブラジルは真冬である。寒さを警戒していたが、思ったほどではなかった。Tシャツを着た人、分厚い革ジャンを着た人たちが入り交じっていた。空港のラウンジで時間を潰した後、10時10分発の飛行機に乗った。

 

 アスンシオンまでは約1時間。荷物を受け取って外に出ると淵脇と要田が待っていた。要田は真っ黒に日焼けした顔をくしゃくしゃにして、「お疲れ様です」と笑顔を見せた。

 

 要田の状況は好転していた。

「監督が代わって試合に使ってくれるようになりました。それまでは出ても残り5分ぐらい。新しい監督というのが、こっちでは名前のある人らしくて。7番を付けて、サイドハーフで起用されています」

 

 要田の言う「こっちでは名前のある人」とはガブリエル・ゴンザレス・チャベスのことだ。愛称「エル・ロコ」――ロコとは英語で「クレイジー」である。

 

 1961年生まれ、パラグアイのキンゼ・デ・マイヨとプロ契約。ルケーニョを経て、スペインのアトレチコ・マドリー、アルバセテに移籍した。90年、オリンピアの一員としてリベルタドーレス杯で優勝。アルゼンチンのエストゥディアンテス、コロン、ペルーのウニベルシタリオでもプレー経験があり、パラグアイ代表にも選ばれたフォワードだった。

 

 彼の起こした“事件”をスペインのスポーツ紙で読んだことを思い出した。

 

 オリンピア対ルケーニョの試合中、彼は2枚目のイエローカードを出した審判を殴った。2年半の出場停止処分の後、この年の3月、オリンピアの一員として復帰、引退していた。

 

 同じスペイン語圏とはいえ、国外のクラブでプレーしていた彼は、外国人である要田の状況を理解し、選手として正当に評価してくれたのだろう。

 

「新しい監督になってから、ほぼ、全試合に出場しています」

 

 要田の顔は明るかった。

 

 翌日、ブラジル領事館でビザを申請、次の日、アスンシオンを出た。

 

 アスンシオンの空港のテレビでは、赤と白の縦縞のパラグアイ代表の試合が映っていた。パラグアイ代表はアテネオリンピックに参加しており、イラク代表と対戦していた。

 

 たった3日間、慌ただしい冬のパラグアイ滞在だった。

 

 その後も要田は試合に起用され、2部リーグ終了後は、1部リーグのリベルタの練習に参加することになった。そしてリベルタは要田を獲得する意思があるという。リベルタは来季のリベルタドーレス杯の出場権を得ていた。リベルタドーレス杯に出場すれば、世界への道が開けるはずだった。

 

(つづく)

 

田崎健太(たざき・けんた)

1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。

著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス30年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日-スポーツビジネス下克上-』 (学研新書)、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『辺境遊記』(英治出版)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社 ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『真説・長州力 1951-2018』(集英社)。『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)、『真説佐山サトル』(集英社インターナショナル)、『ドラガイ』(カンゼン)、『全身芸人』(太田出版)、『ドラヨン』(カンゼン)。最新刊は「スポーツアイデンティティ どのスポーツを選ぶかで人生は決まる」(太田出版)。

2019年より鳥取大学医学部附属病院広報誌「カニジル」編集長を務める。公式サイトは、http://www.liberdade.com


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