当時はまだ公開競技だったとはいえ、オリンピックで野球の日本代表が金メダルを獲得したのは1984年のロサンゼルス大会、ただ1度のみである。
 ロス五輪で日本代表の指揮を執った松永怜一は、その功績が認められて2007年1月、野球殿堂入りを果たした。

 実はこのロス五輪、松永にとってはリベンジの思いを胸に秘めて臨んだ大会だった。
 この7年前、松永はニカラグアで開催されたインターコンチネンタル大会の指揮を執った。優勝を狙ったものの、結果はあえなく3位。松永にとっては結果よりも選手たちの覇気のない姿が不満だった。

「あれはプールサイドで行なわれた前夜祭でした。牛肉のステーキパーティーが催されたのですが、牛肉がなくなった後、日本の選手はブタ肉をおかわりして、夜中、数名の選手が下痢から脱水症状を起こしてしまった。これによりベストメンバーが組めなかった。
 力を出し切れなかったのなら不摂生を悔い、唇を噛み締めるのが普通でしょう。ところが日本の選手の中にはトロフィーを受ける韓国選手に向かってカメラをパチリとやっている者がいた。準優勝に終わったアメリカの選手たちが悔し涙を流しているというのにですよ。
 これが日本を代表する選手たちかと思うと情けなくなってしまった。それからですね、国際舞台に出ても闘争心を失わないような選手を育て、目的を持ったナショナルチームにしなければならないと思い始めたのは……」

 今と違って野球の「日本代表」はブランドではなかった。社会人野球の強打者たちは都市対抗と日程が重なったことを理由に出場を辞退した。所属企業もオリンピックに理解を示すところはごくわずかだった。松永はわずか3週間あまりで日本代表チームを編成した。
「しかも集合して1、2日で学生は日米野球のためアメリカに行っちゃった。残ったのは社会人の13人だけ。このメンバーを徹底して鍛え上げました。

 当時、私は52歳。体力的にはきつかったのですが、ノックバット片手に猛練習を行いました。なぜなら最後は体力勝負になると思っていたからです。
 ロスの夏は暑い。しかも大会は約2週間の長丁場。日本は1970年代以降、国際試合で何度も辛酸を舐めてきた。結局、最後は体力で負けるんです。技術ではなくてね。
 そうした経験があったものだから、私は平均年齢22.5歳という若いチームを編成し、少々下手でもいいから、鍛え甲斐のある者だけを選んだ。これが功を奏したんです」

 一番の問題は4番を誰にするか、だった。先述したように社会人のスラッガーは都市対抗出場を優先して、オリンピックには出てこない。小柄で足の速い選手は揃っていたが「地上戦」だけでは限界がある。
 松永は国際試合では「空中戦」、つまり一発がモノを言うことを痛いほど知っていた。そこで目を付けたのが明大の主砲・広沢克己だった。松永はインパクトの瞬間、アウトステップをする広沢のクセを徹底して矯正した。

 決勝の相手は米国。学生主体のチームとはいえ米国代表では、後にメジャーリーグで大活躍するマーク・マグワイアやウィル・クラークなどがスタメンに名を連ねていた。
 3対1で日本のリード。8回表2死1、3塁の場面で打席には広沢が入った。2点のリードがあるとはいえ、敵地、しかも米国のパワーを考えれば、とてもセーフティリードとは言えない。
「とにかくヒットを狙おう。ショートの頭を越そう」
 打席の広沢はそう考えていた。無心でバットを振った。打球はドジャースタジアムの左中間スタンド中段に突き刺さるホームラン。勝利を決定付ける値千金の一発となった。

 金メダルの立役者となった広沢は後にこう語ったものだ。
「最初はもうガンガン叱られました。“この振り回すだけのデブが”とか“4年になってあぐらをかいているからブクブク太りやがったんだ!”とか、もうケチョンケチョンでしたよ。“オイ学生、オマエらは邪魔者なんだ”と言われた時には本当に居場所がなかった。
 だから決勝でホームランを放ち、松永さんから“ナイスバッティング!”と褒められた時には嬉しかった。辛かった思い出がこの一瞬で全て吹っ飛んでいってしまいました」

 野球は次のソウル大会で正式競技となるが、銀メダルに終わり、正式競技となってからは一度も金メダルを獲っていない。
「今の球界はチャレンジ精神を忘れてはいなだろうか。あの時の私は無限の可能性に挑戦する喜びとやり甲斐にあふれていました。自分たちが時代の新しい扉を開けるんだという……」
 アマ球界の名将も、現在76歳。しかしその素顔は今も青年のままである。

<この原稿は08年1月8日号『経済界』に掲載されたものです>

◎バックナンバーはこちらから