2004年9月末、要田勇一の弟・章から電話があった。

 

 彼は「言いづらい話なんですが…」と申し訳なさそうな口調で切り出した。パラグアイの首都、アスンシオンにいる要田が日本に帰国したいと言い出しているという――。

 

 要田が日本を出てから8カ月が過ぎようとしていた。

 

 先月、パラグアイで会った要田は、明るい顔をしていた。ただ、異国での生活はあちこちが消耗する。言葉が通じないため、自分の思ったことを的確に伝えられない。パラグアイの若く、悪意はないにしても乱雑なサッカー選手たちに苛立ちが募っていることだろう。淵脇隼人という日本語が話せる日系人がそばにいるとはいえ、年が離れており、弱音を吐けない。要田には日本に交際している女性がいた。リーグ戦がなく手持ちぶさた、里心が募る条件は揃っていた。

 

「今が勝負のときだから我慢するしかないって、俺からあいつには何度も言ったんですよ」

 

 ひとつ下の弟・章は要田を親しみを込めて「あいつ」と呼んでいた。

 

 英語が堪能な、章はニューヨークに1年ほど住んでいたことがある。要田はフェルナンド・デ・ラ・モラで認められ、パラグアイ1部リーグのリベルタから目を付けられている。サッカー選手として世界で名前を売るいい機会だった。章もかつてはプロフェッショナルなサッカー選手を夢見た男である。今、ホームシックになっている場合ではないだろう、ともどかしく感じているのが伝わってきた。

 

 兄弟とはいえ、国外生活への耐性は異なる。要田を最も知る章がぼくに電話してきたのだ。要田はかなり弱気になっているのだろう。淵脇にリベルタとの交渉の詳細を確認、その上で一時帰国を相談してみると約束して電話を切った。

 

 調べてみるとリベルタとの交渉は緒に就いたところだった。万事、大雑把なパラグアイではまだ時間は掛かりそうだった。

 

 辰己直祐氏から電話が入ったのはそんなときだった(後述するようにぼくとは長い関係があり、本稿では敢えて氏をつける)。辰己氏は要田のパラグアイ行きを最終的に後押しした男である――。

 

 ぼくと彼との付き合いは、小学館勤務時代に遡る。当時、辰己氏は広告代理店の中に一室を与えられ、サッカー関係を中心に様々なビジネスを手掛けていた。元サッカー選手である彼は幅広い人脈を持っており、何度も取材で助けてもらうことになった。その後、彼はジェフユナイテッド市原(現ジェフユナイテッド千葉)の強化部に入り、前年にボスニア・ヘルツェゴビナ出身の知将を招聘していた。

 

 イビチャ・オシムである――。

 

 オシムは1941年5月にサラエヴォで生まれた。FKジェリェズニチャル・サラエヴォ、フランスのストラスブールなどでプレー。64年の東京オリンピックにはユーゴスラビア代表で出場した。監督としての実績も眩い。ユーゴスラビア代表を90年のワールドカップイタリア大会でベスト8に導いている。当時の中心選手がドラガン・ストイコビッチである。この時点で日本ではほとんど名前は知られていなかったが、世界のサッカー界では名将としての地位を確立していた。ぼくは彼がジェフの監督になるという報道を目にして、良く来てくれたと驚いたものだ。

 

 辰己氏の重たいセリフ

 

 要田兄弟から頼られていたが、ぼく自身はあくまで書き手であり、サッカー界の人間ではない。要田への助言をもらうために早い段階で要田を辰己氏に引き合わせていた。パラグアイへ行く前も3人で会っている。辰己はJリーグのクラブに戻りたいという要田にこう言った。

 

「地域リーグに馴染んでいる君が、上(のリーグ)で通用するはずがない。まずはきちんと走れる体力をつけることだ」

 

 静かではあるが、確固たる口調だった。

 

 その根底には、サッカー選手は考えることはもちろんだが、90分走る能力が必要であるというオシムの考えがあったかもしれない。後に日本代表に選ばれる佐藤寿人、勇人、村井慎二たちを見出していた彼の言葉には説得力があった(そして水本裕貴が続くことになる)。辰己氏はアスンシオン在住の淵脇と親しかった。淵脇を頼ればいいという辰己氏の言葉で、要田はパラグアイに向かったのだ。

 

 辰己氏からの電話の内容はこうだ。

 

 2人のブラジル人選手が欠けてしまい、ジェフのフォワード陣が手薄になってしまったという。

 

 この年(04年)の5月、サンドロが準強姦未遂で逮捕、さらに9月26日の柏レイソル戦でマルキーニョスが左アキレス腱を断裂。今季復帰絶望の重傷だった。オシムは若手の巻誠一郎、あるいは林丈統を起用していたが、まだ一本立ちするほどの力はなかった。手札は1枚でも多い方がいい。そこで所属クラブのない要田にジェフのテストを受けさせてはどうか、というのだ。

 

 通常ならばありえない話である。

 

「いちおう本人に確認しますが、こんないい話はないと思います。宜しくお願いします」

 

 ぼくは携帯電話を握りながら頭を下げた。辰己氏はわかった、それで進めようと言った後、こう続けた。

 

「パラグアイで彼の状態を見たのは、田崎だけだ。分かっていると思うけれど、これは特例のテストだ。要田がひどい状態だったら、自分が恥を掻くことになる。お前の目を信用するからな」

 

 彼の言葉の重みを感じ、背筋が思わず伸びた。すぐに要田に電話を入れると「はい、すぐに切符を取って帰ります」という。そして翌日のアスンシオン出発のチケットを予約したという連絡が入った。ずいぶん早い決断だ、余程、日本に帰りたかったのだろうと、苦笑いした。

 

 そして10月1日、要田が成田空港に着いた。ぼくは、章、章の立教大学時代の同級生、そして辰己氏と一緒に要田を出迎えた。

 

 ところが、空港で要田は辰己氏の怒りを買うことになる――。

 

(つづく)

 

田崎健太(たざき・けんた)

1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。

著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス30年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日-スポーツビジネス下克上-』 (学研新書)、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『辺境遊記』(英治出版)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社 ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『真説・長州力 1951-2018』(集英社)。『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)、『真説佐山サトル』(集英社インターナショナル)、『ドラガイ』(カンゼン)、『全身芸人』(太田出版)、『ドラヨン』(カンゼン)。最新刊は「スポーツアイデンティティ どのスポーツを選ぶかで人生は決まる」(太田出版)。

2019年より鳥取大学医学部附属病院広報誌「カニジル」編集長を務める。公式サイトは、http://www.liberdade.com


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