スペイン・パンプローナで年に一度行われる“牛追い祭り”の中止が発表された。

 

 市は声明で「コロナとの闘いは世界的な優先事項で、感染状況やワクチン接種の進展に関するデータを踏まえると、開催は認められない」と表明したという。

 

 ヘミングウェーの小説によって全世界に知られるようになったこの祭りには、毎年100万人程度の観光客が押し寄せていた。2年連続の開催中止は、観光業を中心に反発もあったはずだが、わたしが反対派だったとしても、この声明を前にしてはグウの音もでない。

 

 東京五輪の開催に反対するさまざまな意見に接するたび、「そうだよなあ」と思ってしまう自分がいる。それでいながら、牛追い祭りほどにはあっさりと諦められないのは、五輪の力、スポーツイベントの力を信じているからでもある。

 

 サッカーが盛んなエリアにしか興味のなかったわたしが、オーストラリアという国を大好きになったのは、00年のシドニー五輪がきっかけだった。行く先々で流れていたAC/DCの特徴的なメロディーは、いまもお気に入りであり続けている。

 

 ロンドンという街に対する印象が変わったのも、五輪がきっかけだった。

 

 わたしにとって、五輪以前のロンドンは「3K」の街だった。長く続いた不景気のせいなのか、何となく「暗い」。フーリガンが多くて「危険」。スタジアムのトイレの「汚さ」は欧州でも最悪レベル。なので、日本の古本屋さんがあること以外、さっぱり魅力を感じない街だったのだが、12年のロンドンはまるで違っていた。

 

 お祭りを開催しているという高揚感のせいなのか、行き交う人々の表情が明るく、「訪れた人に楽しんでもらおう」という気配が満ち満ちていた。W杯ドイツ大会以降、欧州ではドイツに対するイメージが大幅に向上したと言われるが、ならば、ロンドンの好感度も相当にあがったことは間違いない。

 

 同じことが、いや、19年ラグビーW杯の手応えからするとそれ以上のことが、東京五輪では起きると思っていた。お金では買えない、けれども今後の日本にとってかけがえのないものが、五輪を開催することによって世界中に広がっていくと信じていた。

 

 そして、そう信じた人たちが五輪の招致に関わり、その後の運営に携わってきたのだと思っていた。たとえ世論では圧倒的劣勢に立たされようとも、きっと、揺るがぬ信念を持つ人たちがいるのだと思っていた。

 

 五輪開催の意義は絆を取り戻すこと? は?

 

 これが五輪相の言葉だというのだから、気絶したくなる。五輪の意義を説いて国民を憤慨させる方が大臣職にあること、そういう方を要職に据えて平然としている集団に愕然とする。

 

 何としても五輪を開催したいと考える立場の方であれば、せめて中立派の気持ちを動かす、動かそうとする言葉がほしかった。

 

 反対する方の気持ちはわかる。けれど、日本よりはるかに深刻な状況にありながら、依然として東京五輪への出場を切望しているアスリートが、世界中に数多くいる。わたしたちは、日本人は、彼らの期待に応えたい。五輪を開催するという世界との約束を、できる限り果たしたい――とでも言われたら、要は情熱を伴った言葉であれば、同じ精神論であっても、もう少し多くの人に響くと思うのだが。

 

<この原稿は21年5月20日付「スポーツニッポン」に掲載されています>


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