一般紙の取材を受けた。

 

「なぜ日本のアスリートは自分の意見を言わない?」

 

 ん~、一概にそうとはいえない気もするけど、欧米のアスリートに比べていささか控えめなのは事実だし……と、あたりさわりのない答えをしているうち、ふと思いついてしまった。

 

(日本の新聞記者も、自分の意見を公にする機会、少なくありませんか?)

 

 ワシントン・ポスト(WP)紙がIOCのバッハ会長を“ぼったくり男爵”と評したことが話題になった。WP紙の記者は、男爵の称号を授けただけでなく、ドイツ人貴族をイメージしやすい「フォン」という前置詞もくっつけた。となれば、年配者の中にはフォン・ミュンヒハウゼン男爵を思い浮かべる人が出てくる。

 

 通称、ほら男爵。

 

 もし自分がバッハ会長だったら。ジョークの対象ではあっても、尊敬というイメージとはほど遠い人物にたとえられて、愉快な気分にならないことは確実。正直、物書きの一人としては、こういう記事は書きたくない、とも思う。人格攻撃的な匂いも感じられてしまうから。

 

 ただ、書き手の側からすれば、バッハ会長の気分を害することなど承知の上で、それでも、強烈なメッセージを打ち出したかったのだとも推察できる。

 

 ふざけるな、IOC。

 

 そこで思うわけです。ぼったくられようとしているのは、日本人。米国人が日本の側に立ち、人格攻撃スレスレの記事でバッハ会長とIOCに噛みついているのに、なぜ、最大の被害者になろうとしている日本のメディアは声をあげない? なぜ自分の怒りをペンにぶつけるのではなく、WPがこんなことを書きました、あの著名人、知識人もこんなことを言っていました、といった、誰かの尻馬に乗るような記事ばかり?

 

 で、そんな方々が嘆く。

 

「日本のアスリートは意見を言わない」

 

 ジョークなのかな?

 

 それでも、一応は日本のアスリートが控えめな理由も考えてみた。

 

 一記者がIOC会長閣下にケンカを売る国であれば、選手もまだ意見を口にしやすい。けれど、「誰がこんなことを言った」に重きを置き、不満不党というお題目のもと、書く側が立場を曖昧にすることが多い日本の場合、本来は書き手、記者が背負うべき批判が選手に向かってしまう。

 

 本業のあるアスリートが、面倒を避けたがるのは、だから、当然。しかも、こうした面倒は、本業にとってほとんど何の役にも立たない。利点の見えない矢面に、一体誰が立ちたがるものか。

 

 池江璃花子さんに五輪への出場辞退を迫る声がある、というニュースもあった。阪神ファンだったことで知られる中日の大野雄大に、阪神戦ではお手柔らかに、と頼み込むのと一緒で、頓珍漢も甚だしい。

 

 ただ、対戦のたびに頓珍漢な祈りを捧げてしまう阪神ファンとしては、いささか思うところもある。

 

 迫る方も必死なんだろうな。力ある人、影響力のある人、それでいて五輪を愛している人の中からあがる、中止受け入れの声が切望されているんだろうな。

 

 で、いまは五輪推進派と目されている、ただし利に聡い人の中から、声があがっちゃうんだろうな。

 

 国民の懸念を「笑笑」と嘲笑する政府だか大学だかの偉い方が現れてしまった以上、もう、時間の問題で。

 

<この原稿は21年5月13日付「スポーツニッポン」に掲載されています>


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