ワシントン・ポスト(電子版)が“ぼったくり男爵”と揶揄したIOCの総帥トーマス・バッハとは、いかなる人物なのか。昨春、日本で最も太いパイプを持つ組織委員会前会長の森喜朗に単刀直入に訊ねたことがある。「まぁ政治家よりも政治家らしい人物だね」。これは誉め言葉か、それとも皮肉か。いや、おそらくその両方だろう。森は続けた。「自分の主張は非常に強い。しかし、人の話もよく聞いてくれる。日本の政治家も見習わなくちゃならない点がたくさんあるよ」

 

 ロシア大統領のウラジーミル・プーチンを始め、世界の名だたる政治家と渡り合ってきた森でも、バッハの押しの強さには驚いたことがある。2019年6月に大阪で行われたG20サミット開幕前の出来事。バッハの「ぜひ出席したい」との意向を受け、森は首相の安倍晋三(当時)から内諾を得た。

 

 演説の予定稿には「東京五輪における南北(韓国と北朝鮮)の統一行進」という一文があった。「それは認められない」。森は即座に断った。渋るバッハに「続きはローザンヌで話をしよう」と言って引き取った。

 

 サミット開幕の少し前、ローザンヌのIOC新本部落成式に招かれた森はバッハと向き合った。「北朝鮮に対する日本人の感情は複雑だ。拉致のことを知っているだろう。あなたのスピーチを読むと北朝鮮を礼賛するような言葉も入っている。これは政治家として到底、容認することができない」。つい言葉が尖る。「拉致のことは知っているが、私はドイツ人として分断国家の苦しみもわかるんだ」。バッハも引かない。森は語気を強めた。「そこまでおっしゃるのなら、あなたの努力で北朝鮮に拉致されている人を連れ戻してきてくれ。あなたは世界の英雄になれる」

 

 そこに割って入ったのが副会長のジョン・コーツ。「30分くらい考えさせてくれ」。しばらくするとスピーチの文面から南北のくだりが消えていた。振り返って森は語る。「G20の議長は安倍さん。“素晴らしい友人が来た”といった後でバッハさんに北朝鮮の話をやらせられますか。彼については“ノーベル平和賞を狙っている”という人もいる。本当かどうかわからないけど、あまり政治的な動きはしない方がいいね。本人のためにも……」

 

 誰が名付けたかIOC進駐軍。バッハがダグラス・マッカーサーなら、コーツはコートニー・ホイットニーか。首相の菅義偉は「開催の権限はIOCにある」の一点張り。バッハの勇み足を諫めた森は、もういない。

 

<この原稿は21年5月26日付『スポーツニッポン』に掲載されたものです>


◎バックナンバーはこちらから