岸川登俊(白寿生科学研究所人材開拓課)第127回「私が見てきた超一流の男たち・高橋由伸・その3」

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 皆様、白寿生科学研究所の岸川でございます。緊急事態宣言が発令中の地域にお住まいの皆様は、どのようにお過ごしでしょうか? 私は基本的に自宅と会社の往復に終始し、自宅に帰って家族と夕飯を食べ巨人戦の中継を観るのが楽しみ--。そんな、昭和のお父さんのような生活を送っています(笑)。


 他国でワクチン接種が進む中、ようやく日本も本格的に接種が始まりました。私の母も今月と来月の2回ワクチン接種の予約が完了しました。年配の方の接種がある程度完了したら、その後は年齢に関係なく接種できるようになればいいのにと、勝手に思っております。

 

 何よりもオリンピックの開催と成功。そして1日でも早く、日常生活の中で友人や会社の同僚たちと食事をしたり、お酒飲んだりという以前の生活を取り戻せるようになりたいものです。感染防止、そして拡大防止のために個人ができることを頑張ってまいりましょう。

 

 さて、前回まで高橋由伸選手とのエピソードを2回にわたって書いてきましたが、彼との話はまだ続きがあります。彼は引退後すぐに監督に就任するのですが、現役最後となった2015年はコーチ兼選手という立場でシーズンを迎えました。今回はそのときの話を書いていこうと思います。

 

 球団としては高橋由伸という人間に指導者としての経験を数年積ませ、その後に監督就任という青写真を描いていたのかもしれません。その第一歩が兼任コーチでした。兼任コーチになると選手の時とは別に、野手への指導やスタッフミーティングへの参加など、選手時代とは時間の使い方がかなり変わります。彼も「自分の時間を作ることに苦労した」と語っていました。

 

 選手兼コーチとして突入した15年のシーズン、高橋選手は不動のレギュラーとして出場とはいきませんでしたが、スタメンもしくは代打の切り札として活躍し、チームも順調に勝ち星を積み重ねていいました。しかし、その中で不調に喘ぐ主力選手がいました。

 

 その選手の名は村田修一。私が練習パートナーとして関わった3人目の選手となります。村田選手は12年に「優勝争いが出来るチームでプレーがしたい」と横浜からFAで巨人に移籍してきました。その年から巨人はセ・リーグ3連覇、日本一1回に輝き、村田選手自身もベストナインとゴールデングラブ賞を受賞しました。13年には当時のセ・リーグ月間最多安打の更新や、自己最多の164安打を記録するなど、まさに巨人の主力選手として活躍しました。

 

 そして迎えた15年シーズン。村田選手は開幕からなかなか調子も成績も上がらず、シーズンを過ごしていく中、下半身のケガで戦線を離脱しました。その後、1軍に復帰したものの、一向に調子が上がりません。そんな中、原辰徳監督が「村田を預けるから、お前さんが見てくれ」と高橋コーチにお願いしたそうです。その後、私は高橋コーチから「僕たちがやっている練習を修一にもお願いできますか?」と相談を持ちかけられました。

 

 私は一瞬ためらいました。なぜなら打撃投手は20~25分、球数でいうと100~150球程度投げます。その前に2人の練習パートナーを務めるとなると、時間にすると約1時間。これは結構、大変なことです。結果的に高橋選手はその年に現役を引退したため、2人の練習パートナーを務めたのはこの年の数カ月だけでしたが、その期間は結構肩がしんどかったことを覚えています。それでも2人の練習に付き合ったのは、高橋コーチなりに「村田をどうにかしたい」と考え、無理を承知で私に頼んできた。その思いに私も応えたかったからなのかな、と今更ながらに思い出します。

 

 結局、この15年シーズン、チームは2位。クライマックスシリーズはファーストステージを勝ち抜いたものの、ファイナルステージで優勝チームの東京ヤクルトに敗れ、シーズンを終了。4連覇の夢は叶いませんでした。

 

 村田選手は規定打席に到達せず、本塁打はキャリアワーストの12本に終わりました。だが、翌16年には村田選手は復活することになります。

 

 この村田という男、顔はちょっと強面ですがその素顔は後輩の面倒見が良く、兄貴分的存在です。また年上の先輩やコーチとのパイプ役として欠かせない存在でした。原監督の号令の下、巨人では初めてとなる生え抜き以外で選手会長になったのもうなずけるところです。男・村田はしっかりとチームを支えてきました。

 

 次回からはそんな村田選手との個人練習でのエピソードについて書いていきたいと思います。ご期待ください。

 

 

<岸川登俊(きしかわ・たかとし)プロフィール>
1970年1月30日、東京都生まれ。安田学園高(東京)から東京ガスを経て、95年、ドラフト6位で千葉ロッテに入団。新人ながら30試合に登板するなどサウスポーのセットアッパーとして期待されるも結果を残せず、中日(98~99年)、オリックス(00~01年)とトレードで渡り歩き、01年オフに戦力外通告を受け、現役を引退した。引退後は打撃投手として巨人に入団。以後、17年まで巨人に在籍し、小久保裕紀、高橋由伸、村田修一、阿部慎之助らの練習パートナーを長く務めた。17年秋、定年退職により退団。18年10月、白寿生科学研究所へ入社し、現職は管理本部総務部人材開拓課所属。プロ野球選手をはじめ多くの元アスリートのセカンドキャリアや体育会系学生の就職活動を支援する。

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