阪神ファンにとっての1985年同様、広島ファンにとって75年は特別な年である。

 

 

<この原稿は2021年6月13日号『サンデー毎日』に掲載されたものです>

 

 広島は50年、当時の日本野球連盟総裁・正力松太郎のエクスパンション計画により産声をあげた。

 

 しかし、地方の弱小チームゆえ、68年の3位を除き、全てBクラス。そのカープが75年、球団創設26年目にして初優勝を果たしたものだから、日本中が驚いた。

 

 優勝の立役者は、首位打者とMVPに輝いた山本浩二、20勝をあげ最多勝を獲得した外木場義郎だったが、この年は2人の新外国人もよく働いた。

 

 ひとりが33本塁打を記録した長距離砲のゲイル・ホプキンス。そしてもうひとりが、さる5月10日、78歳で死去したスイッチヒッターのリッチー・シェインブラム(登録名シェーン)だった。

 

 ホプキンスほどのパワーはなかったが、主に6番を任されていたシェーンには勝負強さがあった。75年の成績は打率2割8分1厘、13本塁打、56打点。穴の少ない好打者だった。

 

 当時の広島は山本浩二を筆頭に衣笠祥雄、水谷実雄、三村敏之、大下剛史……と右の強打者、好打者は揃っていたが、左の日本人スラッガーが少なかった。その穴を埋めたのがホプキンスとシェーンだったのである。

 

 余談だが、広島といえば高橋慶彦、山崎隆造、正田耕三らスイッチヒッターの宝庫である。そのきっかけとなったのがシェーンだったと、当時の監督・古葉竹識から聞いたことがある。

 

「スイッチヒッターなら、ピッチャーが右でも左でも代える必要がない。シェーンには随分、助けられました。その影響で、後になってスイッチの選手を何人もつくったんです」

 

 ところでシェーンと言えば忘れられない出来事がある。優勝争い真っただ中の9月14日の巨人戦に、ケガもしていないのに、欠場したのだ。

 

 古葉監督が何度も出場を頼み込んだにもかかわらず、普段は気のいいシェーンが、なぜか首をタテに振らなかった。

 

 いったい、シェーンの身に何があったのか。真相が判明するのは、しばらくたってからだ。

 

 実はシェーンは敬虔なユダヤ教徒で、この年の9月14日の夕方から15日の夕方にかけて、一切の労働を禁じられていたのである。そればかりか飲食や化粧、入浴なども許されないというのだ。

 

 ユダヤ教において、この1日間はヨム・キプルと呼ばれる「贖罪の日」で、野球などもってのほかだ。それを知っていれば古葉監督も出場を頼み込んだりはしなかっただろう。

 

 シェーンが来日するまで、宗教上の理由で試合を欠場した外国人選手がいたという話は寡聞にして知らない。すなわちユダヤ教の選手はいなかったということなのだろう。

 

 シェーンは75年と76年の2年間しか広島でプレーしなかった。76年は3割7厘の好打率を残したにもかかわらず、外野守備に難があることを理由に契約打ち切りとなった。「贖罪の日」の出来事とともに記憶に残る選手だった。

 


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