<この原稿は2017年5月5日号『ビッグコミックオリジナル』に掲載されたものです>

 

 金メダル12個を含む計41個のメダルを獲得した昨夏のリオデジャネイロ五輪。あるホテル運営会社が会員向けに実施した「最も心に残ったメダルシーンは?」とのアンケートにおいて、男女ともに「陸上男子400メートルリレー」の銀メダルがトップだった。

 

 100メートル、200メートルの世界記録保持者であるジャマイカのアンカー、ウサイン・ボルトが、バトンを受け取った後、隣のレーンを走るケンブリッジ飛鳥に目をやったシーンは、テレビで何度もリプレーされた。ケンブリッジのバトンが接触したのがその理由だったとはいえ、なかなかお目にかかれるシーンではない。

 

 この大会、3つ目の金メダルを胸に飾ったボルトはレース後、大健闘の日本チームを、こう称えた。

 

「ここ数年、無視できない存在であることを示した」

 

 だが、この快挙は一朝一夕に達成されたものではない。この種目において、メダル獲得という、いわば初めての“大気圏突入”を果たした先輩たちの表彰台への執念が銀につながった見るべきだろう。

 

 舞台は2008年の北京。8月21日、男子400メートルリレー予選が行われる北京国家体育場の上空には雨雲が立ち込めていた。

 

 1組は次の8チーム。アメリカ、トリニダード・トバゴ、ナイジェリア、オランダ、南アフリカ、ポーランド、ブラジル、日本。このうち決勝に進めるのは上位3チームが自動通過。4位と5位は2組の結果を待たなければならない。日本の実力を考えれば、決して低いハードルではない。

 

 アンカーの朝原宣治はチーム最年長の36歳。このシーズン限りで現役を引退する腹を決めていた。

 

 五輪で400メートルリレーに出場するのは96年アトランタ、00年シドニー、04年アテネに続いて、これが4大会目である。

 

 日本選手団の高野進監督は1走・塚原直貴、2走・末續慎吾、3走・高平慎士、そして4走は朝原のユニットを「チーム朝原」と呼んでいた。

 

 朝原と塚原との間には13歳もの年齢差があった。彼らは敬意と親愛の情を込めて、朝原を「おとうさん」と呼んだ。

 

 おとうさんのために、何としてもメダルを――。

 

 経験豊富な朝原も雨は想定外だった。ロケット弾で雲を蹴散らしたことで、大会期間中、北京の中心部に雨は降らないとの報道もあった。

 

「正直言って、“嫌だな”という思いはありましたよ。ウォーミングアップの時にはまだ降っており、地面は濡れた状態でした」

 

 しかし、この雨が日本チームを利するのだから、勝負というものはわからない。

 

 明暗を分けたのは“準備力”の差だった。日本は走路に貼るテープをあらかじめ用意していた。

 

 走者から次走者へのバトンパスは20メートルあるテークオーバーゾーンの中で行なわれる。ゾーン内でバトンを渡せなければ失格となる。

 

 といって、次走者はバトンがくるまで、じっと待っているわけではない。テークオーバーゾーンから10メートル手前で待ち、助走しながらバトンを受け取る。

 

 では、どの位置から助走を始めるか。その目印として走路上にテープを貼る。日本の場合、23足長、距離にして約7メートル手前にテープを貼っていた。走者がこの位置に達した瞬間、次走がスタートを切るのだ。

 

 だが、全ての大会でテープが用意されているとは限らない。日本チームは、その点を心配した。

 

 振り返って、朝原は語る。

「もしかしたら(テープが)配られないんじゃないか、という不安はありました。緊急の事態に備えて、自前のテープを用意しようと。競技場に入る前に取り上げられたりしてはいけないので、僕はスパイクのつま先にグッと押し込んで持ち込みました」

 

 オフィシャルが用意したテープはプラスティック製で色はシルバーだった。翻って日本は白だった。これが功を奏した。

 

 1組では本命のアメリカがバトンを落とすなど4チームが失格した。2組でもダークホースのイギリスがバトンを落とすなどして失格した。計6チームが混乱の中、記録なしに終わった。

 

 失格したイギリスチームのクレイグ・ピッカリングは敗因をこう口にした。

 

「(シルバーの)銀色のテープが光って見えなかった」

 

 備えあれば、憂いなし――。日本は予選をトリニダード・トバゴ、ジャマイカに次ぐ全体3位で通過した。

 

 決勝はこの25時間後に行なわれた。夜の10時過ぎにスタート。アメリカ東海岸の10時台に合わせたのだ。

 

「こんなチャンスは、もう2度と巡ってこない……」

 

 アンカーの朝原は2位でバトンを受け取った。トリニダード・トバゴに抜かれたが、全く気付かなかった。

 

「ぼんやり通り過ぎていく感じ。それだけ集中していたんだと思います」

 

 フィニッシュした時点で順位はわからなかった。電光掲示板を見て初めて3位だと確認できた。

 

 夢にまで見たメダルである。

 

「気が付くと高平と抱き合っていましたね」

 

 それは五輪史上、日本が陸上・短距離種目で初めて獲得したメダルだった。

 

 朝原の妻は1992年バルセロナ五輪シンクロナイズドスイミングの銅メダリスト・奥野史子である。

 

「メダルだけが競技じゃないわ」

 

 慰めの言葉が、朝原は気に入らなかった。

「上から目線。クソー、メダル獲ったヤツが言うなよって(笑)」

 

 北京の銅メダルなかりせば、リオの銀メダルはなかっただろう。今や男子400メートルリレーは、日本のお家芸である。


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