小野仁(白寿生科学研究所人材開拓課)第129回「届け! 侍ジャパンと母校へのエール」
皆さん、こんにちは。新型コロナウイルスのワクチン接種が進む一方で、東京などではまたも緊急事態宣言が発令されるなど、まだまだ予断を許さない状況が続いています。
私も日々の業務に忙殺される毎日で、なかなかプロ野球を楽しむということも難しいのですが、それでも東京五輪に向けた侍ジャパンのメンバー決定や全国で始まっている甲子園の切符をかけた地方大会などにはアンテナを張り巡らせています。それと海の向こうからは大谷翔平選手の活躍ぶりも伝わってきています。ウィズコロナだからこそ、大谷選手の活躍など野球の話題が少しでも世間を明るくしてくれたら、一野球人としてこれほど嬉しいことはありません。
さて、侍ジャパン24人のメンバーが発表され、選ばれた誰しもが「日の丸を背負うこと」や「ジャパンのユニホームを着ること」に誇りと重圧を感じているとコメントしていました。私も高校時代にキューバとの親善試合、そしてアトランタ五輪で日の丸を背負って戦ったことがあります。20年1月のコラムでも触れましたが、改めて自分自身の日本代表への思いについて振り返ってみたいと思います。
私が日本代表として初めて試合に出たのは高校3年生のとき、94年6月、宮城球場(現楽天生命パーク)でのキューバ戦でした。キューバとの試合は日本各地で行われていて、このときは東北開催ということで秋田経法大付高(現明桜)の私と、東北高(宮城)の嶋重宣の2人がメンバーに入りました。嶋は「代表に選ばれて光栄です」とコメントするなど大人な対応を見せていましたが、私は「とんでもないところに来ちゃったな……」と驚くばかりでした。
代表のユニホームは憧れでしたが、まさか自分が着ることはないと思っていました。僕の小さい頃からの夢は甲子園出場とプロ野球で活躍すること。代表、そしてオリンピックというのは「別世界」のことでした。
でも、そのキューバ戦で150キロを投げ、パチェーコ、リナレスという当時の世界最強打者から連続三振を奪ってしまった。私の野球人生を振り返ると、あそこでパッとスポットライトが当たったような、プロからも注目されるようになった分岐点だったと思います。その後、プロへは行かず、日本石油へ進み、96年、アトランタ五輪へ出場することになりました。このときの代表はオールアマチュアで構成され、のちにプロで長く活躍した人たち(川村丈夫、三澤興一、今岡誠、福留孝介、松中信彦、井口資仁、谷佳知)がズラリと揃い、エースのミスターアマチュアの杉浦正則さん(日本生命)など錚々たるメンバーでした。
社会人2年目、20歳の私も「戦力になろう」と意気込んでいたのですが、予選リーグのキューバ戦に先発し、2回途中で打ち込まれてノックアウト……。その後、登板機会はなく、主力選手をベンチで応援するだけでした。チームは苦しみながらも4勝3敗、3位で予選を通過し、準決勝はアメリカに11対2で勝利しました。そして決勝の相手はキューバで、この試合は中盤まで互角の戦いを繰り広げましたが、9対13で敗退。日本は銀メダルという結果となりました。
表彰式で私はメダルを首から下げながら涙を流していましたが、あれは嬉し涙ではなく、悔し涙でした。日本から両親も応援に来ていたのに、自分は何も活躍ができず、チームに貢献できないまま終わってしまった。それがとても悔しかったのを今も鮮明に覚えています。
当時、アマチュアから代表に選ばれた選手は全員が「金メダル獲得!」を目標に必死にやっていました。言うなれば全員が"プロフェッショナル"でした。ただ、その一方で代表に選ばれ五輪に出場することは「プロへの通過点」という思いも選手の中にあったことは確かです。代表に選ばれれば、注目される。そうすればプロに行ける。ある種、代表はプロへの踏み台という一面もありました。
「金メダル!」「プロへ行く!」と意識の異なる選手が混在していたら、もちろんチームはバラバラになってしまいます。それをまとめたのが杉浦さんであり、キャッチャーの大久保秀昭さんでした。ドラフト候補として名前の上がる大学生選手や私たちのような若い選手に対し、「メダルを獲ることの意味」「五輪で勝つことの意義」というものを、杉浦さんたちは事あるごとに説いてくれました。「プロへ」という個人の思い、そして「メダル獲得」というチームの目標。その擦り合せに杉浦さんたちが尽力したからこそ、敗れたとはいえ銀メダルを胸に飾ることができたと思っています。
プロ野球から離れて何年も経つ私が言うことではありませんが、プロ野球選手にとって最大の目標はやはりペナントレースに勝つことであり、個人の成績を上げることです。五輪はあくまで通過点と考えても不思議ではありません。まして今回はコロナ禍でありチームが顔を揃えるのも直前合宿からとなります。それで本当にチームとして一体感を出し、「金メダル」に向けて頑張れるのかな、と心配になることもあります。
でも、稲葉篤紀監督は誰よりもそれがわかっているのでしょう。新聞やテレビでの発言を見ていると、選手たちに「金メダルを獲ることの意義」を植え付けることの大切さを何よりも重視していると感じます。今回、わずか6カ国の参加と寂しいフォーマットではありますが、五輪で野球が開催されるのは最後とも言われています。侍ジャパンにはぜひ金メダルを獲得してもらい、野球界に明るい話題を提供してもらいたいものです。
そういえばアトランタ代表メンバーは「アトランタ会」と称して、今でも集まっています。プロで今も活躍する方々はなかなか顔を見せられませんが、アマチュアの大御所たちは毎度、顔を揃えます。ドメ(福留孝介)がいないと、この会で私は最年少なので、「小野はバスの中で一番うるさく、監督に怒られていた」とか「小野は人の話を聞いていなかったな」とか、もっぱらイジられてばかりです。
アトランタを思い出せば、杉浦さんや大久保さんが「いいか、五輪に勝つということはだな」と私に何度も説明してくれていましたが、正直、右から左。あまり、よく聞いていなかったな、と(笑)。だんだん年齢を重ねるに従って「あのとき杉浦さんや大久保さんの言葉はこういう意味だったのか」と理解できていますが、20歳の私には「馬の耳に念仏」だったようです。もし彼らの言葉を深く理解して、そして予選のマウンドに上がっていれば……。今も悔やまれるタラレバです。
さて、最後に高校野球の話題を。私の母校のエース風間球打(きゅうた)投手が夏の主役として注目を集めています。最速153キロを誇る右腕で、先日はなんとスポニチ紙の一面を飾りました。思わずコンビニで購入したのは言うまでもありません。彼のことは1年生のときに母校のグラウンドで見ました。線は細く、球速も140キロくらいでしたが、スピンなど球の質は良かったのを覚えています。「順調に育ってくれよ」との想いを込めて、「頑張れよ」と彼のお尻をポンッと叩きましたが、まあ風間君の方は、そんなことは覚えていないでしょう(笑)。
大谷選手のオールスター、侍ジャパンのオリンピック、そして母校出場(してくれるであろう)の甲子園と今年の夏は楽しみがいっぱいです。1年前を考えれば野球ができることの幸せを誰もが感じていることでしょう。新型コロナウイルスはまだまだこの先どうなるかわかりません。スポーツを心底楽しめる日が来るように祈るばかりです。皆さんも気をつけてお過ごしください。
<小野仁(おの・ひとし)プロフィール>
1976年8月23日、秋田県生まれ。秋田経法大付属(現・明桜)時代から快速左腕として鳴らし、2年生の春と夏は連続して甲子園に出場。94年、高校生ながら野球日本代表に選ばれ日本・キューバ対抗戦に出場すると主軸のパチェーコ、リナレスから連続三振を奪う好投で注目を浴びた。卒業後はドラフト凍結選手として日本石油(現JX-ENEOS)へ進み、アトランタ五輪に出場。97年、ドラフト2位(逆指名)で巨人に入団。ルーキーイヤーに1勝をあげたが、以後、制球難から伸び悩み02年、近鉄へトレード。03年限りで戦力外通告を受けた。プロ通算3勝8敗。引退後は様々な職業を転々とし、17年、白寿生科学研究所に入社。自らの経験を活かし元アスリートのセカンドキャリアサポートや学生の就職活動支援を行っている。