神様、仏様、稲尾様――。「鉄腕」の異名をほしいままにした元西鉄ライオンズのエース稲尾和久さんが悪性腫瘍のため急死した。享年70。
 通算276勝。1961年には日本プロ野球タイとなるシーズン42勝を記録した。15勝もすればエースと呼ばれるこのご時世にあって、42勝などという数字は今じゃ想像もつかない。

 サードを守っていた中西太さんは当時を振り返り、「投げるリズムがよく、しかも制球力抜群。あれほど守りやすい投手はいなかった」と絶賛していた。

 入団から8年連続で20勝以上を挙げた稲尾さんだが、その後、肩を痛め、64年は0勝に終わる。口さがないものは「若いうちに監督の三原脩が酷使したからだ」と声を潜めた。「肩さえ痛めなければ、400勝はしていただろう」との声も。
 3連敗からの4連勝、稲尾さんがMVPに輝いた巨人との伝説の日本シリーズ(58年)では、7戦のうち6戦に登板している。

「よく“三原さんに酷使されて大変だったでしょう?”と聞かれるのですが、一度もそう思ったことはない。むしろ、やり甲斐のある仕事を与えてもらって感謝しています」
 以前、稲尾さんはそう語っていた。逆にいえばそれだけ、三原さんは人を使う術に長けていたということである。

「完投した翌日、球場に行くと“昨日はごくろうさん。ところで今日はどこで試合を見るんや?”と聞いてくるんです。“まぁ、野球見るんやったら記者席もベンチも一緒や。だったらベンチで見たらええ”と。で、試合が始まる。不利な状況になるとわざと僕の前に来て“ここを切り抜ければ勝てるんやけどなァ”とつぶやく。そう言われると行くしかない。今にして思えば、三原さんは僕がそんな気になるのを待っていたんでしょう」

「鉄腕」誕生の陰に名伯楽あり――。「花は咲き時、咲かせ時がある。人も同じ」。三原脩はこんな言葉も残している。

<この原稿は07年12月1日号『週刊ダイヤモンド』に掲載されたものです>

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