「日本の球界は現場の指導者に冷たいところがあるので、(殿堂入りは)私には無縁なものと思っていた。手元から巣立っていった選手たちが、球界と社会に貢献したことが認められたのだと思う。こんな名誉なことはありません」
 今年1月、特別表彰として殿堂入りを果たした元野球日本代表監督の松永怜一(76)は一言居士らしく皮肉を交えてそう語った。

 当時は公開競技だったとはいえ、野球の日本代表が金メダルを獲得したのは、松永が指揮を執った1984年ロス五輪の一度だけ。
それを考えれば、もう少し早く殿堂入りを果たしていてもよかったかもしれない。

 ドジャースタジアムで行われたアメリカとの決勝戦は、今でも語り草である。
日本は予定通りの継投でリードを守り、8回表、3−1の場面で打席に入ったのが当時、明治大4年生だった広沢克己。
 大学生主体のチームとはいえ、アメリカには後にメジャーリーグで大活躍するウィル・クラークやマーク・マグワイアらがいた。アメリカのパワーを考えれば、2点差はセーフティリードではない。
 ここで広沢が値千金の一発を放つ。左中間スタンドにダメ押しの3ランを放ち、金メダルを決定付けたのだ。

「国際試合に勝つには地上戦と空中戦、どちらもやらなければならない」
 これが松永の持論である。
「地上戦」とは足の速い選手を揃え、今でいうスモールベースボール、スピーディで効率のいい攻撃を行なうことだ。

 しかし、それだけでは勝てない。
相手の息の根を止めたり、敗色濃厚の試合を引っくり返すためには一発が要る。松永はそれを「空中戦」と呼んでいるのだ。

 ロス五輪日本代表は、五輪が社会人の都市対抗野球と重なったこともあり、企業チームは長距離砲を手離さなかった。困り果てた松永は大学球界ナンバーワンの長距離砲である広沢に目をつけ、代表チームの4番に据えたのである。

 実は当時の広沢には悪いクセがあった。インパクトの瞬間、アウトステップしてしまうのだ。これが松永には気になっていた。
「あの打ち方じゃ外国人投手の投げる“重いボール”に食い込まれてしまう。それでセンター返しを叩き込んだんです」
 炎天下の猛特訓が実を結び、クセは矯正された。金メダルを決定付けたホームランは松永の執念の賜物でもあった。

 星野ジャパンには法政大時代の二人の教え子、田淵幸一と山本浩二がコーチとして名を連ねる。
星野仙一監督へのアドバイスは?
「国際大会ではデンと腕を組んで試合を見ているような監督じゃ、絶対に勝てない。自ら先頭に立ってガンガンやらないとね。星野君のようにカッカと燃えるくらいでちょうどいいんです」

 23年前の自らの姿を“闘将”に重ね合わせているのかもしれない。

<この原稿は07年12月9日号『サンデー毎日』に掲載されたものです>

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