サッカーへの意識の高さ、精神面の強さは、長友の特長の一つといえるだろう。
 中学時代のサッカー部監督である井上博氏(現新居浜市立北中教諭)は、こう振り返る。
「一言で表せば、サッカーに対する意識の高い選手でしたね。どんな練習でも手を抜くということがなかった。それに、年を追うごとに気持ちが強くなっていった。技術面が高いというのはあったけれど、それ以上にメンタル面の強さが際立っていましたね」

 井上氏は一つのエピソードを教えてくれた。
「G大阪のジュニアユースといった強いチームと試合をする機会があったんですよ。他の選手は、(強いチームと)試合ができるだけで嬉しいという感じだったんだけど、長友だけは勝つつもりでやっていましたね。実力差があるので、相手が本気でプレーしなかったり、手を抜くこともあったのですが、それが悔しくて泣いていたのが印象的でした」

 中学校3年の時、長友はサッカー人生における大きな決断を下した。地元の新居浜工業ではなく、全国有数の強豪校である東福岡高校に進学することを決めたのだ。新居浜工業はドイツW杯日本代表MF福西崇史、川崎フロンターレで活躍するDF伊藤宏樹を輩出した愛媛県でも有数の強豪である。それでも、少しでもレベルの高い環境でプレーしたいという長友の意志は固かった。

「それだけプロになりたいっていう気持ちが強かったんだと思います。最初は、福西さんも通っていた地元の新居浜工に行こうかなと思っていた。でも、中学校の時に新居浜工と試合をすることがあって、その時に『この高校で本当にプロに行けるのか。もっと強いチームでやらないとレベルアップできないんじゃないか』と感じたんです。母親は『自分の好きなようにやりなさい』と言ってくれる人なので、『勝負してみたら?』と背中を押してくれましたね」

 それにしても、なぜ数多くの強豪校の中から東福岡を選んだのか。
「その頃は九州の高校が強かったんです。国見や鹿児島実業もそう。でも、その中でも東福岡に行きたかった。僕が小学校高学年の時に、本山(雅志)さんの代をテレビで観ていた。あの赤いユニフォームに憧れましたね」
 1997年度、本山雅志(現鹿島アントラーズ)が3年生時の東福岡といえば、高校サッカー史に残る伝説のチームだった。3年生の古賀誠史(現ヴィッセル神戸)、2年生の宮原裕司(現愛媛FC)、千代反田充(現アルビレックス新潟)らタレント揃いで全国高校総体、全日本ユース選手権、高校選手権を制覇し、史上初の高校3冠を成し遂げた。特に、中田浩二(現バーゼル)を擁する帝京と戦った高校選手権の決勝は、雪中の激闘として知られている。その伝説のチームが少年時代の長友に与えた影響は大きかった。

<150人の中を生き抜いた>

 名門東福岡に進学した長友を待っていたのは、予想もしないほど大規模なサッカー部だった。部員数は約150人。当然、監督は1人1人をじっくり見る時間はなかった。自分に何が足りないのか。愛媛からやってきた少年は、毎日のように修正すべき点を考えて、それを監督の前で表現しなければならなかった。

「最初に『この150人の中でレギュラーを獲るのは大変だ』と思った覚えがあります。単純に考えて、一つのポジションに15人いるわけですからね。腐ったら終わりでしたよ。練習でも練習試合でも、一瞬も気を抜けなかった。最初はきついとは思いましたが、自分で行くと決めたことだし、高いお金を出してくれた母親や井上先生のことを考えると、途中でくじけるなんてできませんでした」

 2年の時にはレギュラーの座を射止めた。東福岡への進学について相談を受けた井上氏は言う。
「いきなり『東福岡に行きたい』と言われた時は驚きましたよ。最初は彼が東福岡でやっていけるか半信半疑でした。でも、中学校の3年間、彼を見てきて、その意志の強さを目の当たりにしてきたので、最後は『気持ちの強い子だから大丈夫』と送り出しました。150人もの部員がいる中で、2年でレギュラーを張るんだから大したものですよ。今になってみれば、『東福岡に進んだことは正解だったな』と思っています」

 絶対にプロになる――小学校の頃に芽生えた思いは、大学生3年生の今もブレていない。明治大学という選択は、その延長線上にプロを意識してのことだった。
「高校を卒業する段階になって、『プロに行く実力は今の自分にはないな』と考えました。大学に行って成長しなくては、プロになれないと。実は『大学はチャラチャラとサッカーをやっている』というイメージがあったんです。でも、東福岡の先輩から『みんな、真面目でひたむきにサッカーやっているよ』と聞いて、明治大学を選びました。レベルの高い関東の大学に行きたかったし、練習をまじめにできるところへ行きたかったんです」
 長友の話を聞いていると、サッカーに対する真摯な姿勢がひしひしと伝わってくる。

<ここで頑張れば、違う世界が待っている>

 明治大学に入って以来、腰のヘルニアと戦ってきた。
 入学して間もなく、発症した。「腰の底から響くような痛みを感じるんです。徐々に症状が悪化して、最後は歩けなくなりましたね」。半年間はリハビリに励む日々が続いた。3年になってから再び発症。10月末に戦列に復帰するまで、長期間、ピッチから離れざるを得なかった。

 それでも、リハビリ中に学べたものがあると長友は言う。
「(ヘルニアになったことで)僕は、オフ・ザ・ピッチの大切さ、体をケアすることの重要性がわかるようになった。意識が変わったんです。ケガをしてプレーができないからといって、ネガティブになっても仕方ないと思うんですよ」

 井上氏も、長友の精神面の強さを高く評価する。
「彼とは週に2回ほど連絡をとるのですが、ヘルニアでサッカーができない時期は『今はきついけれど、ここで頑張ったら、違う世界が待っているはず』と前向きに話していました。普通、あれだけのケガをしたらネガティブになってしまいます。彼も相当苦しかったと思いますよ。でも、心を強く持っていましたね」
 
 北京五輪最終予選第5戦(11月17日)と第6戦(21日)に臨むU-22日本代表のメンバーに追加招集されたが、出場機会を得ることはできなかった。
 22日、長友は「悔しい気持ちはありましたね。同年代(のチーム)だから、そういう気持ちも強くなります」と噛み締めるように言った。そして、続けた。
「(悔しさをバネにする気持ちは)すごく強く持っています。色々な課題を見つかったのがよかった。例えば、パスのスピードが上がった時の判断ですよね。そういう部分を改善していかなければいけない」
 苦しい経験を成長の糧へ――。目の前に立ちふさがる壁を一つ一つ確実に越えて、長友はサッカー選手として大きく羽ばたいていくのだろう。

(終わり)

<長友佑都(ながとも・ゆうと)プロフィール>
1986年9月12日生まれ。愛媛県西条市出身。幼稚園の頃にサッカーに出会う。地元の西条北中から、全国的な強豪校である東福岡高校に入学。その後、明治大学に進んだ。6月6日の北京五輪2次予選最終戦のマレーシア戦で初招集され、デビュー戦ながら2ゴールにからむ活躍を見せた。07年5月にJリーグの特別指定選手としてFC東京に受け入れられ、7月のナビスコ杯で公式戦デビューを果たした。持久力と瞬発力を兼ね備え、1対1に強い攻撃的サイドバック。170センチ、65キロ。





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