「香川県立観音寺中央高校」
 高校野球ファンにとっては、思い出深い名である。1995年の全国選抜高校野球大会。春夏ともに一度も甲子園に出場したことのなかった観音寺中央は待望の初出場を果たした。1回戦を勝ち、勢いに乗った同校はあれよあれよという間に決勝に進出した。決勝の相手は古豪・銚子商業(千葉)。試合前、誰もが銚子商の勝利を信じて疑わなかった。ところが、紫紺の優勝旗を手にしたのは観音寺中央だった。しかも、4−0の完封勝ち。
 当時、古豪を零封した優勝投手は今もなお、白球を追い続けている――久保尚志、30歳。現在、鷺宮製作所硬式野球部に所属している。

 久保は幼少の頃からプロ野球を観るのが大好きな少年だった。その頃の憧れは現巨人監督の原辰徳。自然と友人との遊びも野球だったという。
 久保が生まれ育った地域ではソフトボールが盛んだったということもあり、小学4年からはスポーツ少年団のソフトボールチーム「大野原グランパス」に入った。周りよりも少しだけ身長が高かった久保に与えられたポジションはピッチャー。バッティングにも長けていた久保は、6年のときには「エースで4番」の座を張り、チームの大黒柱を担った。

 久保の学年は地元では無敵を誇り、県代表として全国小学生ソフトボール大会に出場した。1回戦を勝ち抜いた大野原グランパスは、2回戦で宮崎県代表の黒潮ソフトボールスポーツ少年団と対戦した。意気揚々と挑んだが、結果は完敗だった。

「僕らは地元ではほとんど負けたことがなかったんです。だから、自分たちは強いんだ、と思い込んでいました。ところが、2回戦は1−10くらいのスコアでボロ負け。もう、『こいつら、本当に同じ小学生か?』と思いましたよ。結局、彼らが優勝したんですけどね」

 初めて味わう敗北感――。久保は全国との力の差を思い知らされた。まさか自分が6年後、全国の頂点に立つとは夢にも思わず。その時の彼は、ただただ「全国にはすごいヤツがいる」と呆気にとられるしかなかった。

 久保は中学でも1年から「エースで4番」としてチームを牽引した。大野原グランパスのメンバーがそっくりそのまま野球部に入ったが、中学ではいい成績を挙げることはできなかった。だが、久保は野球を楽しみ、それに満足していた。その頃の彼の頭には甲子園の「こ」の字もなかった。子ども心にも、「甲子園なんて行けるわけがない」と決め付けていたのだという。

 “夢”から“目標”へ

 久保が中学3年の年、観音寺中央高校に一人の教師が赴任した。橋野純、当時44歳。前年まで丸亀商業(現丸亀城西)の野球部監督を務め、同校を7度の甲子園出場に導いていた。
 橋野監督は久保の素質を見抜いていたのだろう。同じ地元の観音寺第一高校の進学を考えていた彼を熱心に誘った。

「実はその時、僕は少し腰を痛めていたんです。でも、監督は『故障しても、オレがなんとかする。全国を飛び回ってでも治すからウチに来てほしい』と言ってくれたんです。そこまで言ってくれるなら、とすぐに決めました」

 当時の観音寺中央は生徒の約8割が女子。新体操部は全国トップレベルだったが、野球部は県大会ベスト4が最高で、四国でも無名に近かった。地元の人にとっても甲子園は夢のまた夢と、異国の地でもあるかのように遠い存在としてしか見られていなかった。

 しかし、橋野監督は違った。「お前らを3年で甲子園に連れて行く」。そう言って、全国から優秀な選手を呼び寄せた。集まった選手もまた、甲子園に行くことしか考えていなかった。そんな中、久保は一人、甲子園に行く自分をイメージすることができずにいた。

「県外から来た選手たちを見て『自分とは全然違うなぁ』と思いました。何がすごいって、考え方がまるで違うんです。僕は監督に『甲子園に行くぞ』と言われても『行けたらいいなぁ』くらいにしか思えなかった。ところが、彼らはもう最初から甲子園に行くものだと決めていましたから」

 一つ上の学年が4人だったこともあり、2年になると久保の学年が主体となった。レギュラー9人のうち、2年が8人。その中には久保の名前もあった。ただし、「ピッチャー」ではなく、「キャッチャー」としてである。それは自らの選択だった。

「入学した時、監督からはピッチャーをやるように言われました。でも、僕らの学年にはピッチャー候補が7人もいた。それこそ、中学まで“エースで4番”なんてザラにいたんです。それを知って、『これじゃ、自分はエースにはなれっこないな』と早々と諦めました。監督に『僕にはピッチャーは無理です』って断ると、『だったら、キャッチャーをやってみないか』と言われて……。おそらく肩の強さを買われたんでしょうね」

 しかし、橋野監督は久保のピッチャーとしての素質を捨てきれなかったのだろう。2年になると、久保は再び投球練習を命じられた。そして秋の四国大会からは、キャッチャーの座を他の選手に譲り、エースナンバーを背負ってマウンドに立つようになった。
 その時にはもう久保にとって甲子園は“夢”ではなく、“目標”となっていた。

「県外から来た選手たちと過ごすうちに、自分の考えも変わっていきました。特に、2年の夏の県大会で2年主体のチームにもかかわらず、ベスト4になれたことが大きかった。これで自信がついて、『よし、秋は優勝して甲子園に行こう』と思ったんです」

 秋の県大会、観音寺中央は見事に優勝を果たした。続く四国大会では、決勝まで進むものの、現在東京ヤクルトで活躍する藤井秀悟率いる今治西高校に0−2で敗れた。だが、甲子園への切符をつかむには十分な成績だった。
 翌年2月21日、観音寺中央に吉報が届いた。四国代表として選抜大会に出場することが決まったのだ。同校にとって、春夏通じて初の快挙だった。

「3年で甲子園に連れて行く」――橋野監督の言葉を信じ、ひたすら練習に打ち込んできた選手たちの努力が実を結んだ瞬間だった。

(第2回へつづく)

<久保尚志(くぼ・たかし)プロフィール>
1977年5月27日、香川県観音寺市出身。小学4年からソフトボールを始め、小学6年時には全国大会に出場した。観音寺中央高校では2年秋からエースとなる。春夏通じて初の甲子園出場となった3年春の選抜大会で全国優勝を果たす。夏も甲子園に出場するも、2回戦で敗退した。中央大学を経て、鷺宮製作所に就職。1年目からレギュラーを獲得し、活躍する。05年の日本選手権では主将としてチームを牽引し、ベスト4に。今夏の都市対抗野球大会では32年ぶりに初戦を突破。ベスト4まで勝ち進み、自身も大会優秀選手に選ばれた。






(斎藤寿子)
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