8月7日にオリンピックの野球は決勝戦を迎える。侍ジャパン(野球日本代表)は悲願の金メダルをかけ、アメリカと対戦する。17年、稲葉ジャパン誕生以前から侍ジャパンの強化本部長を務めてきた山中正竹氏の証言で、野球日本代表の強みと五輪野球の怖さに迫る--。インタビュアーはスポーツコミュニケーションズ編集長の二宮清純。(このインタビューは講談社・本2018年1月号に掲載されたものです。)

 

――野球は1992年のバルセロナ五輪から正式競技に採用されました。その記念すべき大会で日本代表を指揮したのが山中さんでした。山中さんは、その4年前のソウル五輪において、代表の投手コーチを務めました。公開競技ながら日本は銀メダルを獲得しました。
山中 ソウル五輪は当時最強だったキューバが出場しなかったため、金メダルのチャンスだったのですが、決勝で米国に敗れ、銀メダルとなりました。

 

――代表メンバーは壮観です。ピッチャーは潮崎哲也、渡辺智男、石井丈裕、野茂英雄。キャッチャーは古田敦也。内野手は野村謙二郎、小川博文など、その後、プロ野球やメジャーリーグで活躍する選手をたくさん輩出しました。
山中 このチームは強かった。先輩の山本浩二さんに「浩二さん、(プロと)試合しようよ」と言ったら、フフフと笑っていました。これだけの投手陣だから引き分けはあっても、まず負けることはないと思っていました。

 

――ソウルでは確か、当時、東北福祉大の3年生だった佐々木主浩も代表入りできなかったんですよね。あの大魔神が……。
山中 いや、大魔神だけじゃありません。オリックスからメジャーリーグに行った長谷川滋利も落選組です。彼は「僕は全日本のバッティングピッチャーをやっていました」と笑っていましたよ。

 

――それほどのチームが決勝では米国に3対5で敗れました。
山中 ソウル五輪は10月に行なわれました。米国代表のメンバーは、ほとんど大学生です。実は6~7月に行なわれた日米大学野球では日本が米国に勝っているんです。その時の中心メンバーのひとりが野村です。彼らが日本代表に合流したのに、なぜ負けたのか。それは10月という開催時期に原因があると思いました。彼らは普通、6月までしか野球をやらない。それが10月にオリンピックがあるということで、ずっと練習していたんです。4カ月もみっちり野球をやったら、そりゃ強くなりますよ。大会がもし、8月だったら日本が勝っていたかもしれない。実際、8月開催のロサンゼルス五輪では、決勝で日本が米国に勝っていますから……。

 

――ソウル五輪ではキューバが参加しなかったことで米国が金メダルを獲れたという言い方もできます。当時のキューバにはホルヘ・リナレス、オレステス・キンデラン、アントニオ・パチェコなど規格外の強打者が揃っていました。
山中 日本がキューバの野球を知ったのは1972年、ニカラグアで行なわれた世界大会です。この大会でキューバは圧倒的な力を発揮して優勝しました。いや、その強さには本当に驚かされました。それがきっかけでキューバから指導者を呼んだり、試合をするようになったんです。

 

――山中さんが代表監督に就任するまでのキューバとの力関係は?
山中 バルセロナ五輪前の3、4年というのは「キューバの野球に慣れましょう」という時期ですね。それまでは驚いてばかりいたんですから……。

 

――世界最強のキューバに勝つには、まず投手陣を強化しなければならない。そこで山中さんが唱えたのが「90マイル(約144・8キロ)プラスサムシング理論」です。
山中 そうです。だから僕はピッチャーに言いました。「ストレートが145キロなきゃ日本代表には入れないよ。いや、それにプラスして何か特徴のあるボールが必要だよ」と。実際、そうでなきゃキューバには勝てないと思っていましたから。

 

――1989年5月に行なわれたキューバ戦、日本は与田剛、潮崎、野茂のリレーで4対1で勝ちました。これは日本のアマチュア野球史に残る名勝負と言われています。
山中 特に野茂対リナレスの対決なんて、僕はベンチにいながら、お客さんのような心境でしたよ。「ウァー、すげえ!」と。18・44メートルがめちゃくちゃ近く感じられましたね。

 

――当時の社会人野球は金属バットでした。“打高投低”の時代ですが、逆に言えば、これによってピッチャーが鍛えられたと言えるかもしれない。
山中 それはあるでしょうね。力のないピッチャーは潰されるかもしれない。しかし、力のあるピッチャーは金属バットをへし折るようなボールを投げようとする。だから力のあるピッチャーにとっては(金属バットは)好都合だったと言えるでしょう。

 

――野茂は1990年4月、近鉄で初勝利を初完投であげました。その時に感想を聞いたら「キューバに比べたらラクですよ」というものでした。
山中 そりゃ、そう思うでしょうね。特にプロ1年目は。何しろ1年前までは世界ではキューバ、国内では金属バットを相手に戦っていたわけですから。

 

――バルセロナ五輪では台湾(チャイニーズ・タイペイ)に痛い目に遭わされました。予選では0対2、準決勝では2対5で敗れ、決勝進出を阻まれました。それでも3位決定戦に勝ち、銅メダルを獲得しました。
山中 あの時は、後に阪神でプレーする郭李建夫に完全に抑えられました。それも、2試合続けて。言い訳はできませんが、あの大会の郭李はすごかった。マックス148キロのストレートに加え、フォークボール。完敗でした。

 

――バルセロナ五輪の目標は“打倒キューバ”でした。優勝したキューバには予選リーグで2対8で敗れています。これは想定の範囲内だったかもしれませんが、台湾に2回も続けてやられるとは……。
山中 私は台湾のオリンピック戦略にやられたと思いました。

 

――オリンピック戦略とは?
山中 ソウル五輪の時です。台湾ベンチに19歳の郭李がいました。そこで僕は李来発監督に聞いたんです。「なぜ、まだ使えない選手を連れてきているんですか?」と。その頃の郭李はボールは速いけど、どこにいくかわらかない。確か6番目くらいのピッチャーでした。

 

――李監督の答えは?
山中 「いや、これはバルセロナ五輪要員です」と。つまりソウル五輪の時点で、もう4年先を見据えていたんです。帰国したら、油断とか研究不足だとか、いろいろ言われました。でもね、これは僕に言わせればスタッフや選手たちに失礼な話ですよ。僕たちは台湾の試合のビデオテープを擦り切れるくらい見たんですから。それでも勝てなかったのは、彼我の戦略の差だったと言うしかないですね。

 

――戦力ではなく戦略の差だと?
山中 そういうことですね。準決勝で負けた後は、バスの中でも一切、声が出ませんでした。20~30分間、誰も一言も発しませんでしたよ。

 

――精神的なダメージは想像に難くありません。翌日は米国との3位決定戦。よく尾を引きませんでしたね。
山中 負けた後、すぐ部屋に集まってミーティングをしたんですが、彼らの表情には明らかに虚脱感が漂っていました。それでも明日に向け、気持ちを切り替えなければならない。米国相手に、よく8対3で勝てたと思います。

 

――このチームには2017年WBCで指揮を執る小久保裕紀もいました。まだ青山学院大の3年生でした。
山中 私が言うのも何ですが、このチームは今でも仲が良いんです。“集まれ!”と号令をかけたら、すぐにでも集まりますよ。仲間意識が強いのは、皆が口に出せない無念さ、虚しさを共有しているからです。もちろん小久保も、そのひとりです。WBCでのベスト4は立派な成績だったと思いますよ。

(了)