2004年10月12日――。

 

 要田勇一がジェフユナイテッド市原千葉の練習に参加してから2週間が経とうとしていた。要田をジェフに紹介してくれた辰己直祐氏から、この日に行われるトップチームの練習試合に出場するかもしれないという連絡が入った。ぼくは予定を調節して、稲毛海浜公園スポーツ施設球技場に向かうことにした。

 

 この球技場は、2002年ワールドカップのとき、アイルランドが事前合宿で使用したことで知られる。予定よりも早く京葉線の稲毛海岸駅に到着し、時間を潰すために歩くことにした。ところが徒歩で歩くには少々遠すぎた。スタジアムに到着したときにはJFLに所属する佐川急便との練習試合は始まっていた。

 

 平日の午後にも関わらず観客席にはちらほら人の姿があった。2003年シーズンの監督就任以降、オシムは中堅から下位を彷徨うクラブだったジェフを変えた。2003年シーズンは3位、翌2004年のファーストステージも4位と優勝に手が届く場所に食い込んでいた。年俸総額が底辺とは思えない好成績だった。オシムの指導が注目され始めていたのだ。ぼくの顔を見つけた辰己氏が「ここだよ」という風に手をあげた。

 

 台風の影響で朝から小雨が降っていた。雨は上がっていたが、今にも雨が降りそうなどんよりとした空だった。ピッチの横に、トレーニングウエアに身を包んだ監督のイビチャ・オシムの大きな身体を見つけることができた。

 

 彼のような経験豊かで頭脳明晰な監督には、使えるか使えないか、選手に対する明確な線引きがあるはずだった。20代後半の要田にはそう長くの時間は与えられない。この練習試合が最終テストになるはずだった。

 

 オシム監督になってからぼくが実際にジェフの試合を観戦するのは初めてだった。

 

 目に付いたのは、個々の選手、特に若手の質の高さだった。阿部勇樹のプレースキックの精度、佐藤勇人のパスさばきは練習試合とはいえ鮮やかだった。

 

 オシムが標榜したのは、ボールも人も動くサッカーである。選手は90分間走り続けなければならない。

 

 サッカーにおいて、ただ単に走り回るだけでは意味がない。味方との位置関係を把握し、次のプレーを読んで動く連動性が要求される。そのためには同じ“サッカー観”を選手たちが共有する必要がある。オシム体制になって2シーズン目に入り、選手たちにはオシムの考えが浸透していた。この中に入るのは大変だろう。

 

 要田の強みは、短期間であるにしても、欧州でスペイン人に混じって指導を受けた経験があること、そしてサッカーに飢えていることだった。彼はJリーグの中に入れば、突出した能力のある選手ではないが、さぼること、手を抜くことはない。オシムは要田のような選手の使いこなす術があるはずだった。

 

 要田がピッチに入ったのは後半からだった。

 

 彼は必死に走り回っているのが伝わった。ただ、周囲と上手く噛み合っているとは言えない状態だった。あっという間に試合が終わり、サテライトの試合が始まった。相手は地元の明海大学サッカー部だった。格下相手に、ジェフの若手選手たちは気持ち良くボールを回した。前線の要田にも何度かいい形でパスが入ったが、シュートは枠内に飛ばなかった。

 

 目に付いたのは、中盤のサイドに入っていた小柄な選手だった。大きな背番号を背負っており、加入したばかりの選手のようだった。ボールを持つと、目の前の選手を抜こうと勝負を仕掛けた。一瞬の速さがあり、若さから来る鼻っ柱の強さが感じられた。要田とのボールの受け渡しも悪くなかった。

 

 Jリーグ復帰への思わぬ障害

 

 試合終了後、要田と電話で話をした。悪くない出来だった。ただ、あのサッカーに入るのは難しいねと正直に感想を伝えた。すると彼は「そうですね」と明るく返事した。このチームでサッカーをすることが楽しくて仕方がないようだった。

 

 あのサイドの若い選手面白いね、と要田に振ると「ああ、いい選手でしょ」と返した。

「静岡FCにいた、水野(和樹)の弟ですよ。面白い選手でしょ。あいつ、良くなりますよ」

 

 後に日本代表に選ばれる水野晃樹である。

 

 自分が当落選上にいるのに、若い選手のことを手放しで褒める。これが要田の良さでもあった。

 

 かつてオシムは、スペインのレアルマドリーやドイツのバイエルン・ミュンヘンという超一流クラブから監督の打診を受けたことがある。しかし、彼は「自分はビッグクラブ向きの監督ではない」と断った。オシムは手持ちの駒を組み合わせて、強い相手を倒すことに重きを置いていた。辰己氏からオシムは、選手の普段の振る舞い、どのようにチームに貢献しているのか観察しているとも聞いていた。その意味では要田の人間性を買ってくれるかもしれないと思った。

 

 この夜、辰己氏から電話が入った。

――要田が契約してもらえることになった。

 

 ぼくは受話器を持って飛び上がりそうになった。ありがとうございます、とぼくは頭を下げた。

 

 ところが、すんなりとはいかなかった。

 

 翌日から辰己氏、そしてパラグアイ在住の淵脇隼人と毎日電話で連絡を取りあうことになった。パラグアイサッカー協会から国際移籍証明書が届かなかったのだ。淵脇がパラグアイ協会に乗り込み交渉したが、官僚的な体制に、南米的なルーズさが加わった組織とのやりとりはやっかいだった。彼らにとっては要田は2部リーグ所属の外国人選手に過ぎない。後回しに処理する案件ととらえていたのかもしれない。

 

 ジェフは要田を必要としたのは、セカンドステージ終了までの2カ月ほどだ。シーズンが終われば、移籍市場が開き、新しいフォワードを補強することは可能になる。数日のうちに契約を結べなければ、意味がない。

 

 辰己氏はこう言った。

「このままだと、要田がジェフでプレーできるかどうかは五分五分だ」

 みんなの苦労が水の泡になってしまうのか。突然、床が抜けて真っ暗な穴に落ちていくような気がした。

 

(つづく)

田崎健太(たざき・けんた)

1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。

著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス30年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日-スポーツビジネス下克上-』 (学研新書)、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『辺境遊記』(英治出版)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社 ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『真説・長州力 1951-2018』(集英社)。『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)、『真説佐山サトル』(集英社インターナショナル)、『ドラガイ』(カンゼン)、『全身芸人』(太田出版)、『ドラヨン』(カンゼン)。最新刊は「スポーツアイデンティティ どのスポーツを選ぶかで人生は決まる」(太田出版)。

2019年より鳥取大学医学部附属病院広報誌「カニジル」編集長を務める。公式サイトは、http://www.liberdade.com


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