時計の針を少しだけ戻す――。

 

 2004年10月、要田勇一がジェフユナイテッド市原・千葉の“入団テスト”を受けていたときのことだ。

 

 要田をジェフユナイテッド市原・千葉と繋いだ辰己直祐氏は、要田が思った以上にジェフの練習に対応していることに少し驚いた。ジェフの指揮官、イビチャ・オシムの組み立てる練習は少々独特である。頭脳と走力の両方を使うため、普通の日本人選手は戸惑う。蒸し暑いパラグアイで身体が絞れていたこと。また、短期間とはいえスペイン留学を経験しており、欧州の指導者の練習に対する免疫があったことも幸いした。

 

 最も印象に残っているのは、要田が初めてゲーム形式の練習に入った日のことだ。要田が選手一人一人に声を掛けて何かを訊ねていた。辰己氏は要田に何をしているのだと訊ねた。

 

「(練習中に)パスをもらうときにどう呼んだらいいのか、ニックネームを確認していたんです」

 

 辰己氏と同じようにオシムも要田の行動に目を留めた。通訳から要田の意図を聞いたオシムは、あいつは苦労してきたんだな、と呟いた。そして辰己氏に「要田は(元フランス代表のティエリ・)アンリにはなれないが、プロフェッショナルな選手だ」と言って親指を立てたという。

 

 サッカー選手にはそれぞれ持ち味がある。その意味でパラグアイは、足元でボールを受けて前に進む種類のフォワードである要田にとって酷な環境であった。ピッチの芝は雑草のようで小石も転がっており、イレギュラーバウンドが頻発する。また、パラグアイの選手たちは、他人を生かすパスよりも自らの存在価値を示すシュートを狙う癖があった。

 

 一方、ジェフのピッチは整備されており、中盤には複数のパスの出し手がいた。何より、選手の長所を最大限に引き出す術に長けたオシムがいた。

 

 問題は、パラグアイサッカー協会から発行する国際移籍証明書(ITC)が届かないことだった。

 

 前回の原稿で書いたように、2004年10月13日の佐川急便との練習試合後、契約締結が決まった。ぼくの取材メモを開くと、この日から約1週間、辰己氏、そしてパラグアイの淵脇隼人と連絡を取り合ったと書かれていた。

 

〈10月16日、辰己さんと(要田)勇一、交互に電話、ITCについて話し合う。辰己さんが怒っている。パラグアイに電話するが、隼人さんがつかまらない〉

〈10月19日、辰己さんによると、勇一の移籍は50パーセントの確率でダメになったとのこと。このままだと、みんなの努力が水の泡になる〉

〈10月20日、(淵脇)隼人さんからの電話の内容について辰己さんと話をする。かなり疲れる。ソファーに横たわると2時間ほど寝てしまう〉

 

 パラグアイとの時差は13時間。淵脇に電話するのは通常の仕事が終わった、深夜から朝方だったのだ。

 

 サポーターに受け入れられた37番

 

 パラグアイリーグ2部のフェルナンド・デ・ラ・モラで結果を残した要田には、1部リーグのクラブから声が掛かっていた。要田はその誘いを断って帰国、ジェフのテストを受けた。1部リーグのクラブに移籍していれば、フェルナンド・デ・ラ・モラに移籍金が入った。金額にして数千ドルに過ぎないだろう。それでもパラグアイ2部のクラブにとっては貴重な収入である。結果的に、淵脇がクラブ、パラグアイ協会と話をまとめ、なんとか契約に漕ぎつけた。

 

 その直後、10月31日に行われた、ガンバ大阪戦に要田はベンチ入りした。オシムは、鍋底をそぎとるように、チーム全体を無駄なく使う指揮官である。辰己氏から途中出場の可能性があるという連絡を受けて、ぼくは市原臨海競技場まで駆けつけた。

 

 前半はジェフが試合を支配した。右サイドハーフに入った水野晃樹が思いきりのいいドリブルで何度もゴール前に迫った。水野から阿部勇樹、羽生直剛へとつないで1点を先取した。さらにフォワードの巻誠一郎のシュートが、ディフェンダーの宮本恒靖の足に当たりオウンゴールで2点目。2対0で前半を終えた。

 

 ところが、後半、ガンバがシステムを変更、ジェフの両サイドはずるずると下がってしまう。その隙間を俊足のフェルナンジーニョが走り回り、遠藤保仁が正気を取り戻した。その遠藤が1得点。さらにジェフのシュートがネットを揺らすが、オフサイドと判定。気落ちしたのか、その直後、同点に追いつかれた。

 

 2対2の緊迫した試合内容、要田に出番は回ってくるのか。どのくらい時間を与えるのだろうか。観客席でぼくは時計を見ながらはらはらしていた。

 

 残り10分を切った頃、37番をつけた要田がピッチに入った。

 

 前線で孤立していた巻と下がり気味の中盤との間を要田は走り回った。その動きに触発されたのか、ジェフのパス回しが活発になった。要田はボールを受けるとシュートを狙った。その動き、彼の表情からなんとか点を取りたいという気持ちが伝わってきた。試合は引き分けのままで終了。それでも、スタンドに詰めかけた応援団は要田の名前を連呼した。要田はジェフのサポーターに受け入れられたようだった。

 

(つづく)

 

田崎健太(たざき・けんた)

1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。

著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス30年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日-スポーツビジネス下克上-』 (学研新書)、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『辺境遊記』(英治出版)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社 ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『真説・長州力 1951-2018』(集英社)。『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)、『真説佐山サトル』(集英社インターナショナル)、『ドラガイ』(カンゼン)、『全身芸人』(太田出版)、『ドラヨン』(カンゼン)。最新刊は「スポーツアイデンティティ どのスポーツを選ぶかで人生は決まる」(太田出版)。

2019年より鳥取大学医学部附属病院広報誌「カニジル」編集長を務める。公式サイトは、http://www.liberdade.com


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