群れを離れ、未開拓の分野に挑むベンチャースピリットの持ち主が「ファースト・ペンギン」なら、後進のため、リスクに身を捧げたこちらは、さながら「ファースト・モルモット」か。

 

 トミー・ジョン手術。名前が示すように1974年、ドジャースの左腕トミー・ジョンが左ヒジの腱を断裂した際、チームドクターのフランク・ジョーブから受けたじん帯再建手術のことを言う。

 

「目黒区青葉台にある金田正一前監督の自宅を訪ね、“米国で手術します”と伝えたら“後輩たちのために頑張ってこい”と励まされたものです」。そう語るのは、元ロッテの三井雅晴だ。

 

 蛇足だが、私の記憶の中で、ともに新人王に輝いた74年の三井と93年の伊藤智仁(ヤクルト)は、今もビンテージの色に染められている。三井の切り裂くようなストレートと伊藤の高速スライダーは、とてもこの世のものとは思えなかった。

 

 太平洋の巧打者・基満男をして、「こんなボール見たことない」と言わしめたのが三井のストレート。しかし、規格外のその速さゆえにヒジは決壊した。

 

「投手はヒジにメスを入れたら終わり」。そう言われていた時代である。なぜ79年オフ、わざわざ渡米までして手術を受けたのか。「ウチにいたレオン・リーが前の年に手術を受け、開幕に間に合った。高木公男2軍監督から“オマエもやってみんか”と…」。術後、ジョーブはトミー・ジョンの写真を指差し、「キミも復活できる」と激励した。

 

 だが翌日、包帯をとり、傷口を見た瞬間、真っ青になった。「これは話が違う」。事前に3センチと言われていた傷口の跡は優に10センチ。じん帯移植こそ免れたが尺骨神経を移動させる大手術だったのだ。

 

 手術は成功した。全盛期のスピードは戻らなかったが、痛みは消えた。“同病相憐れむ”の関係だった村田兆治に「手術も選択肢のひとつです」と伝えた。4年後、村田も米国で手術を受け、復活を遂げた。

 

 当の三井は手術が成功したにも関わらず短命に終わった。「ヒジをかばった影響か、今度は腰を痛めてしまって…」。ファースト・モルモットたる三井の前に復活への地図は用意されていなかった。それでも「悔いはない」と三井は言う。「後輩たちに道がひとつできたのですから…」

 

 2週間前、ツインズの前田建太が最新技術によるトミー・ジョン手術を受けた。米国では術後にパワーアップした投手のことを「バイオニック」(超人)と呼ぶ。幸い経過は順調だという。

 

<この原稿は21年9月15日付『スポーツニッポン』に掲載されたものです>


◎バックナンバーはこちらから