(写真:自身の集大成に臨んだ東京大会は11位だった円尾<左>)

 不思議な夏が終わった。

 どこにも出かけられない、楽しみにしていたオリンピック・パラリンピックも観に行けない。
 朝練習と仕事の合間にTV観戦だけの日々。

 でも、その分、いつもより多くの競技を見ることができた。
 特にパラリンピックについては、史上最大の放送時間ということになり、我々も様々な競技を深く見ることができたのは、不幸中の幸い!? こんな時期だったからこそかもしれない。

 

 その中でパラリンピックアスリートの「一人では練習もできず、多くの人のお陰です」という言葉をたくさん聞き、耳に残っている。競技時は多くの方にその場を整えてもらっているのは当然だけど、普段の練習はそうもいかない。僕たちのように一人でできることは限られている。その苦労は少し想像するだけでも大変だ。これは話を聞きたいということで、パラトライアスリートで、リオデジャネイロ、東京とパラリンピックに出場した視覚障害の円尾敦子選手にお願いした。

 

「トライアスロンを始めて、最初に苦労したのは練習をサポートしてくれるメンバーの確保でした。ランの伴走者はいくらでもいましたが、一緒にタンデム(2人乗り自転車)に乗り、ましてOWS(オープンウォータースイム)をガイドできる方は少なく、少しずつ知り合いを増やして、人づてに紹介してもらった方に直接自分から夢を伝え、お手伝いをお願いしていきました」

 やはりガイドを探すのがかなり大変だったようで、彼女の持ち前のバイタリティであちこちに聞いていたという。

「実は歴代のオリンピアンに当たって砕けていました。無知だったからこそ無謀な行動ができたのかな(笑)」

 いや、この明るい性格だからこそ、その輪は広がっていったのだろう。

 

 ガイドのルールは国内レースであれば男性でもいいし、途中交代してもらうこともできるが、国際レースとなると「同性かつ同国籍の1名」という条件がある。

「そこで一気にハードルが上がります。そして競技なので自分より力のある選手である必要があり、それでいてエリートレースに1年以上出ていないというルールもあり、さらにレースの際は1週間の遠征に行ける人などの条件が付いてしまうので、本当に大変でした。」

 競技力のハードル、さらにルールや時間的なハードル。さらに練習のことも考えると、頭がくらくらするくらい難しい……。

 

「それでも、この9年で10人弱の女性に国際ガイドを務めていただいてこられたのは、自分から直接アタックしまくったことが一因かなと思います。ガイドさんたちは『自分自身でお願いして、自分で環境をつくる努力をし、練習を一生懸命やっているから応援したい』と言ってくれました」

 やはり彼女のパッションが、様々な壁を打ち破ってきたのだろう。

 

 練習も遠征も費用がダブルでかかることになる。

「お恥ずかしいことにガイドさんにある程度のご負担をお願いしてきました。どこかからサポート金が入ると、その方々にお返ししたりしてきましたが、全額お支払いすることができなかったことも多々ありました。でも、みなさんがガイドをできることを誇りに思ったり楽しく思ってくれて、お金の心配はするなとおっしゃってくれてきました」

 ガイドの皆さんの深い理解と支援があってこそ成立しているというのが良く分かる。

 

 命を預けるガイドとの関係

 

(ガイドの菊池<右>はオリンピックを目指した元トライアスリート)

 ガイドとの人間的な関係値が非常に重要だが、どのようにコミュニケーションしているのだろうか。

「関西人のガイドさんは、おしゃべり好きな方が多くて、レース中も必要ない情報まで伝えてくれることもあったくらい。そのあたりはあんまり困ったことがありません。基本的には、こちらから雑談をふり、練習の前後にいろんな情報を得て、できるだけガイドとしてではなく人間として、お付き合いできる関係を築く努力をしてきました」

 

 普段のコミュニケーションこそがレースでも生きるということなのだろう。

「特に私が苦手なランの時はめちゃくちゃ励ましてくれます。本当につらいときに力をくれるので、だからこそスイムやバイクで命を預けられると思っています。一方で、ガイドさんのトラブルで、リタイアとか失速というのも経験してきました。彼女たちを恨む気持ちには一度もなったことはありませんが、自分に甘えていたところがあってガイドを酷使してしまったのか、どうしてこうなったのかと落ち込んだりもしました。そんな時、ガイドさんも落ち込んでいるだろうから一人にしてあげたいのに、自分一人では遠征先で部屋から出て散歩に行くこともできないもどかしさを感じました……あっ、これは夫婦喧嘩の時も同じです!(笑)」

 

 大変なことも少なくないようだが、同じ視覚障害の方々に勧めたいのだろうか。

「私のガイドさんたちのように無償の気持ちで楽しみながらサポートしてくれる方々が世の中にはたくさんいることを知ってもらいたい。昔はできないことを素直に話して手伝ってもらうことを躊躇していたので、こういう世界をもっと早く知っていたら、もっとうまく周りに甘えて生きてこられたし、もっと楽しいことを経験できたのかもしれません」

 助けてもらうことに抵抗があったが、そんな肩に入った力を上手く抜けるようになった。できないことを助けてもらい、できるようになる喜び。これをぜひ同じように障害のある皆さんにも知ってもらいたいそうだ。

 

 今回の東京大会で2大会連続のパラリンピック出場となった。

「リオはとにかく緊張したままいつの間にか終わってしまった感じ。でも東京はその経験が生かされ、反省したことや後悔を取り返せたと思います。どちらも共通しているのは、ボランティアが素晴らしいということ。どちらも前評判で悪いことを聞かされたり、リオはジカ熱、東京はコロナ禍での開催だったり。本当に出場してもいいのかという気持ちを持ちながら選手村に入ったのですが、ボランティアが暑い中でも笑顔で明るく迎えてくれて、どんな時も一生懸命サポートしてくれて、応援してくれました。無観客であっても、レース会場でボランティアの方々が応援してくれたので、有観客であったリオと変わらず全くさみしくなかったです。東京では、特に母国語でのやりとりができるメリットは大きくて、常に安心して活動することができました」

 

 国民や主催者だけでなく、参加する選手も不安に揺れた本大会だったが、それを払拭してくれたのがボランティアたちの温かいもてなし。これは他の選手も口々に言っていた。

 これは開催都市としても嬉しいし、世界に誇れることだった。

 

「本当は、あの素晴らしい選手村やレースを、日本の子供たちにもっとたくさん見てもらい、世界にはいろんな人がいるんだというのを実感してもらいたかった。そして障害をもつ子供たちにもこの世界を見てもらえたら、自分の持つ可能性をもっと発見してもらえるんじゃないかと。残念でした」

 これは本当にその通りで、だからこそ今後の発信や伝え方が大切になってくるだろう。

 

 彼女の話を聞いていると、パラアスリートは障害そのものを乗り越えるのはもちろん、スタートに立つために、我々には分からない多くのハードルを乗り越える努力をしてきているのが良く分かる。だからこそ、伝わってくるものも多いのだろう。

 

 いろいろ考えさせられている僕に彼女が一言。

「本当に、素晴らしいパラリンピックでしたよ!」

 彼女の話を聞いた後に、その一言はさらに響くものだった。

 

白戸太朗(しらと・たろう)プロフィール

17shiratoPF スポーツナビゲーター&プロトライアスリート。日本人として最初にトライアスロンワールドカップを転戦し、その後はアイアンマン(ロングディスタンス)へ転向、息の長い活動を続ける。近年はアドベンチャーレースへも積極的に参加、世界中を転戦していた。スカイパーフェクTV(J Sports)のレギュラーキャスターをつとめるなど、スポーツを多角的に説くナビゲータとして活躍中。08年11月、トライアスロンを国内に普及、発展させていくための会社「株式会社アスロニア」を設立、代表取締役を務める。17年7月より東京都議会議員。著書に『仕事ができる人はなぜトライアスロンに挑むのか!?』(マガジンハウス)、石田淳氏との共著『挫けない力 逆境に負けないセルフマネジメント術』(清流出版)。最新刊は『大切なのは「動く勇気」 トライアスロンから学ぶ快適人生術』 (TWJ books)

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