西川吉野(東レアローズ/徳島県徳島市出身)第3回「強豪・金蘭会で味わった挫折」
2017年、富田中学3年の西川吉野は、JOCジュニアオリンピックカップに徳島県選抜のキャプテンとして出場した。最優秀選手賞にあたるJOC・JVAカップに選ばれたことを報じた当時の新聞には、彼女のコメントが載っている。
<本当に驚きしかない。すごくうれしい>(徳島新聞2017年12月29日付け)
それもそのはずだ。西川がキャプテンを務めた徳島県選抜が決勝トーナメント1回戦で敗退したということを考えれば、異例の選出と言ってもいいだろう。本人の驚きは、4年の歳月が経った今も色褪せない。
「自分の中ではMVPをもらうようなプレーはできたと思っていなかったので、選んでいただいてとても驚きました」
徳島県から全国へ。中学バレーボール界に西川吉野の名を轟かせた。彼女は全日本中学生選抜にも選ばれ、オランダへの海外遠征を経験した。とはいえ現地では、体格で明らかに差がある海外選手とマッチアップする。心折れることはなかったのか。
「想像していた以上に海外の選手は高かった。ただ、高いブロックに対してどう決めるのかを考えたり、今までにはない楽しさがありました。“また選んでもらって海外の選手とプレーしたい”と思うようになりました」
世界にはこんなに強い相手がいるのか――。彼女が胸に抱いたのは“ワクワク”だった。帰国した後の西川の様子を、当時富田中学バレーボール部の顧問・大野圭一郎氏はこう証言する。
「バレーボールに対する見方が変わりましたね。身長190cm台の人たちが打ってくるスパイクやブロック、サーブは異次元だ、と言っていました」
意識が変われば、行動が変わる。これまで以上に真剣にトレーニングを積んでいったという。
中学卒業後は大阪府の金蘭会高校に進学した。「バレーボールを続けるなら強いところに行きたいと思っていました」。金蘭会は姉・有喜も通う全国大会常連の強豪校だった。2014年度には高校3冠達成、17年度には全日本バレーボール高等学校選手権大会(春高バレー)を制していた。2学年上の姉から情報を仕入れながら、練習に参加して居心地の良さも実感したという。「先輩たちはすごく優しくて、面白い人も多かった」。大阪のノリが西川に肌にも合ったのだろう。
一方、金蘭会側はどういう評価だったのか。同高バレーボール部の池条義則監督に聞いた。
「彼女を初めて見たのは中学1年の時です。姉の評判を聞いて富田中学に行きました。姉は身長が180cm近くあり、プレーを見て“ウチに来て欲しい”と思いました。その隣のコートでプレーしていたのが吉野。僕の記憶では3、4人の小さい子たちがボールを打っていた。監督の大野さんから『あそこにいるのが西川の妹です』と教えてもらった。身体が細くて、まだ身長もそれほど大きくなかった」
当時は存在を知った程度に過ぎなかったという。しかし、池条監督は会うたびに身長が伸びていく西川に可能性を感じた。彼女が中学3年生になる頃には身長は170cm後半に伸びていた。どんな優れた指導者でも身長を伸ばすことはできない。特にバレーボールは身長の高さが重要視されるスポーツだ。西川に対し、「ぜひウチに」と声をかけたのは必然だった。だが池条監督が彼女に魅力を感じたのは、高さだけではない。
「身体は細いが、スパイクを打つフォームがキレイやったね。それはスパイクに限らず、レシーブもクセのない素直なフォーム。“筋力さえつけばすごいアタッカーになるはずや”と思いました」
失意のポジション変更
5月にはタイで開かれたアジアユース選手権大会にU-17日本代表として出場した。西川はキャプテンを務め、日本の7連覇に貢献。MVPとベストアウトサイドスパイカーに選ばれた。姉・有喜に続き連覇を延ばし、MVPにも輝いた。「姉の活躍でアンダーカテゴリーの国際大会があることを知りました。“自分もそれに出たい”と思っていました」という大会で結果を残してみせた。
同学年随一の才能があったとて、強豪校で易々とレギュラーの座を掴めるほど甘い世界ではない。「周りの子は全国で戦ってきたけど、私はその経験が浅い。メンバーに入るのにも必死でした」。チームが連覇を達成した春高バレーでは1年生ながらメンバー入りを果たしたものの、出場機会はなかった。上級生の同じポジション(アウトサイドヒッター、レフト)には2学年上の姉・有喜、1学年上の宮部愛芽世がいたからだ。
「コートには立てませんでしたが、ベンチ入りさせてもらうことができた。先輩たちのプレーを近くで見させてもらっていい経験になりました」
キャプテンでエースという重責を担った姉・有喜は、全国高校総合体育大会(インターハイ)と国民体育大会少年女子の部で準優勝、春高バレー優勝にチームを導いた。金蘭会卒業後はV.LEAGUEの強豪JTに入団した。必然的にレフトのポジションがひとつ空いたわけだが、妹の西川がそのままスライドするわけではなかった。
新入生にもいいレフトの選手が入ってきたこともあり、高校2年時にはライト(現・オポジット)、センター(現・ミドルブロッカー)を経験した。当時の心境を西川は、こう振り返る。
「正直、悔しかった。一番やりたいのはレフトでした」
エースが任されるレフトは花形ポジションだ。「最後はレフトに託す場面が多い。他のポジションでプレーしていても、(最後にトスが上がるのは)自分じゃないのか、と思う場面もたびたびありました」。中学時代まではチームから何度も託されてきたボールが、自分のいる場所とは違うところに送られる。その光景をコート上で見送るしかないのは、“元エース”としては忸怩たる思いもあったのだろう。
ズルズル引きずってもしょうがない――。そう西川は気持ちを切り替えた。
「試合に出させてもらうことはすごいことだし、違うポジションでプレーすることも良い経験になるとポジティブに考えるようにしました。それに試合に出たくても出られない子もいる。自分は他のポジションに移ったことで、コートに入れているのだから、クヨクヨしてはダメだと。まずは与えられたポジションで精一杯やろうという気持ちでした」
西川のポジション変更について、池条監督の意図はどうだったのか。
「私としては試合経験を積ませたかった。だから2年時には、身長は180cm近くありましたし、ブロック力をつけるためにもセンターで使いました」
決して不器用なタイプではない。西川はセンターにも順応して見せた。池条監督は日本バレーボール協会の関係者からも「吉野のセンターはアリですね」と声を掛けられたという。
高校2年のシーズン、インターハイはベスト16、国体はベスト8(7位)、春高はベスト4だった。前年の成績は超えられず、悔しさを味わった。だからこそ最終学年のシーズンに懸ける思いは大きかったはずだ。西川自身、レフトにポジションを戻し、“エース”に返り咲くチャンスだった。しかし、思いもよらぬ逆風が吹いたのだった――。
(最終回につづく)
<西川吉野(にしかわ・よしの)プロフィール>
2002年9月10日、徳島県徳島市出身。ポジションはアウトサイドヒッター。小学2年でバレーボールを始める。富田中学3年時にはJOCジュニアオリンピックカップの徳島県代表に選出され、大会最優秀選手賞にあたるJOC・JVAカップを受賞した。大阪・金蘭会高校に進むと、全日本バレーボール高等学校選手権大会(春高バレー)など全国大会で上位に入った。アンダーカテゴリーの日本代表には、18年U-17、19年U-18に選出されている。18年のアジアユース選手権では主将を務め、大会優勝に貢献。大会MVPとベストアウトサイドスパイカーに選ばれた。19年にはU-18世界選手権に出場し、5位に入った。身長178cm。最高到達点300cm。背番号16。
(文/杉浦泰介、写真/©TORAY ARROWS)