西川吉野は2002年の秋、徳島県徳島市で生まれた。母・未央によると、出産予定日は父・義久の出張と重なっており、出産には立ち会えないと思われていた。ところが西川家の次女は、父の帰宅を待つかのように、予定日より遅れて生まれてきた。そのこともあって西川の「吉野」という名前は、父の「よしひさ」から「よし」の音をとった。ちなみに漢字で「吉野」となったのは、徳島県と高知県を流れる吉野川に由来するという。

 

 日本三大暴れ川に数えられる吉野川だが、西川の幼少期はどのような性格だったのか。西川には2学年上の姉と2学年下の妹がいる。母・未央に3姉妹の性格を比較してもらった。

「長女と末っ子は比較的よくしゃべるタイプ。吉野も性格は明るいのですが、どちらかというと自分からしゃべるタイプではなかったですね。幼少期の頃からあまりグズることもなく、手のかからない子でした」

 

 西川三姉妹の共通点と言えば、バレーボールである。母親のママさんバレーについていく機会もあり、幼少期から競技に馴染みがあった。地元のバレーボールチーム、昭和ブライターズには姉・有喜が小学2年時に入団した。「身体を動かすことが大好きでした。活発な方だったと思います」という西川も姉の入団から2年後、姉と同じ小学2年時に昭和ブライターズへ。「監督が厳しい方だったので、“辞めたい”と思ったことは、何度もありました」と振り返るが、それでも辞めなかったのは“バレーボールが好き”との気持ちは消えなかったからだ。

 

 特にポジションが同じで、背格好が近い姉・有喜とはよく比べられてきた。「憧れではなくライバルでもない。一緒に刺激し合い、高め合っていける存在です」と西川。2人の違いは、利き手にある。姉は右利きの右打ちだが、右打ちの西川は本来左利きなのである。「バレーボールを始めた時、気が付いたら右で投げたり、打ったりしていました。だから左でボールを投げたり打ったりは全然できないんです」と本人。左打ちの方が数少ないことを考えれば、左の優位性を手放したことになる。もし彼女が利き手のまま左打ちの選手で競技をスタートしていたら強打のスーパーエースになっていたかもしれない。ただ、それは“たられば”にしか過ぎず、現在右打ちで順調に成長していることを考えれば、むしろ選択は吉と出たと言っていいだろう。

 

 小学4年からAチームで試合に出られるようになった。県大会上位に入ったこともある。姉・有喜も通う地元の富田中に進学した。それはバレーボール部の顧問・大野圭一郎氏(現・鴨島第一中学教諭)が赴任してきた時と同じタイミングだった。転勤前の中学ではバレーボール部を全国大会に導いたこともあった。その大野氏は彼女の才能を早くから評価していた。

「ボールの感覚、ネット際のボール処理などにセンスを感じました。身長が高かったので、ミドル(ブロッカー)で使う指導者もいると思うんですが、私は“レフトがいい”と思っていました。彼女は冷静にコースが見えている。そこにレフト(アウトサイドヒッター)としての将来性を感じたからです」

 

 成長を促すためのキャプテン任命

 

 富田中では1年から試合の出場機会を得た。それはバレーボール部員が少なかったことも大きい。姉・有喜の学年は5人、西川の学年は2人、その間の学年が1人しかいない。一般的なバレーボールは6人制。つまり控えが1人だけという状況だ。それでも西川姉妹を中心に勝ち進み、夏の徳島県中学校総合体育大会で準優勝。四国中学校総合体育大会にコマを進めた。四国総体では1回戦敗退に終わった。姉・有喜の学年が部を引退した後、部員はわずか3人。新チームのスタート時は他校との合同チームで大会に出場することとなった。西川の2年時のシーズンはなかなか結果が出なかった。

 

 1学年上の先輩が引退し、西川が最上級生になるとキャプテンを任された。大野氏によれば「キャプテンタイプではない」という彼女をなぜ指名したのか。

「どちらかというと一歩退くタイプ。だからキャプテンにして“前に出そう”と思ったんです」

“役割が人を育てる”との狙いで、あえてキャプテンでエースという重荷を背負わせた。「吉野にしかボールが上がらないようなバレーボールをしていました」と大野氏が言うのだから、当時の富田中はエースの西川にトスを徹底的に集める戦法だったのだろう。彼女は集まるボールと期待に必死に応えようとした。

 

「初めてキャプテンを任されて悩むことは多かった」という西川だがエースとしては結果を残した。春の徳島県中学校選手権大会を制し、夏の徳島総体でも優勝に貢献した。大きな期待を胸に臨んだ四国総体。しかし、結果は2年前と同じ初戦敗退だった。「先のことばかり考えてしまった……」と西川。勝ち進めば当たっていたであろう優勝候補との対戦に意識を向けてしまい、初戦から力を出し切れなかったのだ。この悔しさを忘れられない、“忘れてはいけない”と思うからこそ、彼女は今も好きな言葉として「一戦必勝」を挙げる。

「これは中学の時に大野先生から言われた言葉です。先のことを見過ぎてしまうと負ける。だから“目の前の試合、1点に集中しよう”と思うようになりました」

 

 結果として、四国総体の敗戦が彼女の気持ちを引き上げた。

「四国大会で負けて自分の不甲斐なさを知り、JOCカップに選ばれてから彼女のバレーボールに対する姿勢がガラッと変わりました」

 大野氏の言う「JOCカップ」とは、JOCジュニアオリンピックカップのことだ。冬に行われた全国の都道府県対抗戦。西川は徳島選抜のキャプテンを任された。大野氏から見ても練習の取り組み方が変わり、チームを鼓舞する姿勢も見られた。「初めての全国大会。会場の雰囲気もこれまで経験してきた大会と全然違う。すごく力が入りました」。エースとして徳島を決勝トーナメント進出に導いた。大会でのプレー、将来性が評価され、1回戦で敗れたものの、最優秀選手賞にあたるJOC・JVAカップに選ばれた。過去の受賞者は大山加奈、木村沙織、古賀紗理那ら全日本のエースを担ってきた選手たちだ。徳島の煌めく才能が、全国に認められた瞬間だった。

 

(第3回につづく)

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西川吉野(にしかわ・よしの)プロフィール>

2002年9月10日、徳島県徳島市出身。ポジションはアウトサイドヒッター。小学2年でバレーボールを始める。富田中学3年時にはJOCジュニアオリンピックカップの徳島県代表に選出され、大会最優秀選手賞にあたるJOC・JVAカップを受賞した。大阪・金蘭会高校に進むと、全日本バレーボール高等学校選手権大会(春高バレー)など全国大会で上位に入った。アンダーカテゴリーの日本代表には、18年U-17、19年U-18に選出されている。18年のアジアユース選手権では主将を務め、大会優勝に貢献。大会MVPとベストアウトサイドスパイカーに選ばれた。19年にはU-18世界選手権に出場し、5位に入った。身長178cm。最高到達点300cm。背番号16。

 

(文/杉浦泰介、写真/©TORAY ARROWS)

 


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