<この原稿は『ビッグコミックオリジナル』(小学館)2011年7月5日号に掲載されたものです>

 

 ユニホームにはリーグやチームを支えるたくさんのスポンサーのステッカーが所狭しと貼られている。

 

 日本、米国、韓国、台湾の4カ国・地域で通算347セーブをあげている高津臣吾は、現在、独立リーグ「BCリーグ」の新潟アルビレックスBCでプレーしている。ちなみに名球会員が日本の独立リーグでプレーするのは史上初めてのことだ。

 

 ここまで(2011年5月末現在)の成績は11試合に登板して0勝0敗6セーブ、防御率0.00。完璧である。このリーグの実力は、どのレベルか。

 

「ウーン、正直に言うとNPB(日本プロ野球組織)の2軍よりも下でしょう。僕自身、もう一度NPB、いや、それ以上のレベルのリーグでやりたいと思っています。現実的には難しいんでしょうけど(笑)」

 

 監督の橋上秀樹はヤクルト時代のチームメイトだ。その橋上は次のように期待する。

「彼が日本、米国、韓国、台湾で培ってきた経験は何ものにも代え難い財産。選手、球団、リーグが彼から学ぶことはたくさんあると思います」

 

 高津が海を渡ったのは2004年の春だ。前年、NPBの通算セーブ記録を31個も塗り替えた高津はシカゴ・ホワイトソックスの一員となった。

 

「本当はもう1年早く(アメリカに)行きたかったんですよ。ただ、その時に(セーブの)日本記録がかかっていたり、ぜいたく税(チームの総年俸が一定を超えた場合に課徴金を支払う制度)の導入があってアメリカのFA市場が動かなかったりしたものだから、もう1年待ってから行こうと……」

 

 1年目、59試合に登板し6勝4敗19セーブ。シカゴのファンに「ミスターゼロ」の愛称で親しまれた。

 

「もう生活も野球も全てが楽しかった。おそらく2004年のシーズンというのは僕の野球人生にとって最高に楽しい1年だったと思います」

 

 見るもの聞くもの、全てが新鮮だった。

「メジャーリーグの考えは、とにかくプレーヤーはプレーだけに集中してくれと。後のことは他のプロに任せてくれと。洗濯するプロ、食事をつくるプロ、移動を手配するプロ。全ての部門にプロがいるんです。

 

 スパイクだって自分で磨こうと思って置いていたら、もうないですからね。担当の人間がパッと持っていって磨いている。これはホームのみならずビジターに行っても同じでした」

 

 1年目が天国なら、2年目は地獄。このシーズン不調だった高津の携帯電話にエージェントから連絡が入ったのは7月のことだ。

 

「クリーブランドからシカゴに帰る途中、飛行機に乗る前です。“緊急事態だ”と。聞けば“球団からリリースされた”と言うんです。要するにクビになったんですね。

 翌日、僕は朝早く球場に行き、誰に会うこともなく荷物をまとめました。一番困ったのは練習場。マウンドを探すのもブルペンを探すのも大変。高校のグラウンドを借りて、ちょっと傾斜があれば、そこでピッチングしていました。前年と違って、逆にこの年は何をやっても楽しくなかったですね」

 

 その後、メッツでプレーし、再び日本へ。06、07年と古巣のヤクルトで13セーブずつをあげながら、球団からは解雇を通告される。

 

 39歳になった高津の選択は韓国のウリ(現ネクセン)・ヒーローズへの移籍だった。

「野球自体はおもしろかった。8球団あって、僕が所属したチーム自体は強くなかったんですが、その中の3人ぐらいはトップレベルだった。だいたい、どのチームもそんな感じ。

 

 野球自体はパワー系。そんななか、細かいことをやってくるチームは、たいして長打力がなくても勝てるんです。日本の指導者もたくさん来ていましたね」

 

 韓国では1勝0敗8セーブ、防御率0.86と活躍したが、外国人枠の問題で1年で球団を追い出されるはめに。

 

 4カ国・地域目は台湾。興農ブルズというチームに所属し、1勝2敗26セーブ、防御率1.88という成績をおさめた。

 

「台湾は4球団で120ゲームやるんです。つまり同じチームと40試合。レベルは日本の1軍半。2軍よりは強いと思います。

 

 困ったのはグラウンド状態。向こうは雨が多いから目茶苦茶になってしまうんです。芝生というより草ですからね。外野なんて穴ボコができたりしていました」

 

 プロ野球が盛んな4カ国・地域のトップリーグでプレーし、勝利とセーブを記録したピッチャーは日本人では高津ひとり。まさに「さすらいのクローザー」だ。

 

 高津には2人の“師匠”がいる。ヤクルト入団時の監督・野村克也と長年に渡ってバッテリーを組んだ古田敦也だ。

 

「僕にとって2トップ」

 

 こう前置きして、高津は感謝の思いを口にする。

「まず野村さんですが、この人と出会わなかったら僕の今はないと思います。というより2、3年で野球を辞めていたかもしれない。

 

 僕の決め球のシンカーも、野村さんから“もっと遅い球を投げろ”と言われたのがきっかけ。最初は半信半疑だったのですが、あのボールは僕にとって大成功でした。

 

 古田さんには本当に迷惑をかけました。僕に速い真っすぐとスゴイ変化球があれば頭を使わせなくて済んだんでしょうけど、そんなピッチングはできない。ボールを曲げたり落としたり、いろいろなところに投げないと打ちとれなかった。古田さんがキャッチャーじゃなかったら、これほどの記録は残せていなかったでしょう」

 

 現在は新潟県長岡市に居を構え、上信越、北陸を中心に遠征の日々。野球を職業にして21年目の夏を迎える。

 

「正直言って年々、体力は低下しています。20代、30代の頃は連投しても何ともなかったけど、今は朝起きて、まず“今日はどこが痛いんだろう”と体のチェックから入りますから(笑)」

 

 代名詞のシンカーは、まだ錆びついてはいない。


◎バックナンバーはこちらから