力道山の最後に弟子にして、国内最年長現役記録を更新し続けるグレート小鹿。その波乱万丈なプロレス人生に当HP編集長・二宮清純が迫る。

 

二宮清純: 1988年7月31日に函館で引退興行を行ってプロレス界からいったん身を引かれました。それにもかかわらず、その後、大日本プロレスを設立し、飲食店を開くなど多忙な日々です。

グレート小鹿: 若いときは1万円札を追いかけていましたが、1万円札には羽が生えていて、私よりも飛ぶのが早くて追いつかない(笑)。だから、もう羽根の生えたお札を追うのはやめたんですよ。それで今は、ボランティア活動を大事にしています。「資源を増やす木を植えましょう」というNPO法人を立ち上げ、全国で植樹活動をしています。

 

二宮: なぜ、植樹の活動を?

小鹿: 日本は資源が少ないじゃないですか。木を植えれば、それ自体が資源となるし、木が増えれば、海に豊かな栄養分が流れてプランクトンが増えます。そうすれば海藻が増え、魚が戻り、豊かな海が生まれます。それに、今は人口が大都市に一極集中していて、ふるさとがない子どもも増えています。地方に豊かな林や森ができれば、地方に残る人や移住する人も増えるだろうし、そうすればふるさとを持つ子どもが増えるでしょう。20年、30年と長い時間がかかりますが、そういう未来のためになることをやりたいんです。

 

二宮: 94年に大日本プロレスを設立されたのは、またプロレスが恋しくなったからでしょうか。

小鹿: 引退後、函館で事業をやっていたのですが、途中でうまくいかなくなって帰ってきました。その頃、いろいろなところから「手伝ってくれ」と言われ、渋々手伝っているうちに、今度は、元NOW所属のケンドー・ナガサキらに誘われて大日本プロレスをやる羽目になったんです。

 

二宮: 興行の「手伝い」はわかりますが、まさか現役復帰とは……。あのとき、小鹿さんは確か53歳でしたね。

小鹿: はい。リングに上がるつもりはなかったけど、選手を見ていると、かったるいわけです。はっきり言えば、面白くない。それなら私がやろうと、昔とった杵柄とばかりにリングに上がると、マスコミもお客さんも喜んでくれました。そうしているうちに、抜けられなくなってしまった(苦笑)。

 

二宮: 小鹿さんが今でも現役を続けるのは、プロレスラーが天職だからでしょうか。

小鹿: もちろんそれもありますが、先ほど話した植樹活動でお金がいるんですよ。リングに上がって募金の呼びかけをすると、わずかながらもお金が集まります。それを使って一本でも多く植樹したいんです。正直体はきついし、大変だけど、自分がいったんやり出したこと(植樹活動)だから、最後までやり通したい。また、馬場さんが日本プロレス時代に着ていたガウンが、私の元で約半世紀ぶりに見つかりました。修復が終われば、馬場さんの功績をたたえ、再来年ぐらいに馬場さんの故郷である新潟県三条市で展示会をできないかと考えています。日本プロレスの先輩たちの功績や、プロレスの魅力を後世に伝える役割を担っていきたい、と思っているんです。

 

二宮: あらためてプロレスの魅力とは何でしょう。

小鹿: 私は力道山先生の最後の弟子です。20年代前後に日本に入ってきたプロレス文化が、このまま衰退してしまうことを心配しています。最近は「プロレスラーは心も体も強い」という〝プロレス精神〟のようなものが、置いてけぼりにされているような気がします。先人たちが涙と汗を流して社会に認知された文化を守るために、最高齢になった今でも言うべきことは言わなきゃいけない。それが私の使命です。頑張れるだけ頑張って、自分がやれることをやったら、あとは若い人に任せたいと思っています。

 

(詳しいインタビューは12月1日発売の『第三文明』2022年1月号をぜひご覧ください)

 

グレート小鹿(ぐれーと・こじか)プロフィール>

本名・小鹿信也(こしか・しんや)。1942年4月28日、北海道函館市出身。函館駅の青函連絡船の待合室で九重親方(元横綱・千代の山)の後援会の人に声をかけられ、大相撲の出羽海部屋に入門。63年に相撲界を離れ、力道山に弟子入り。同年5月に日本プロレスでデビュー。60年代末から米国でも活躍。70年代前半はカンフー・リーとしてミル・マスカラスと一大抗争を展開した。帰国し、73年から全日本プロレスに参戦。大熊元司との「極道コンビ」でアジアタッグ王座を4度獲得した。88年に一度引退後、95年3月に大日本プロレスを旗揚げ。現在は自らもリングに上がるなど、国内現役最年長記録更新中。


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