“絶好調男”としてプロ野球ファン以外からも親しまれてきた中畑清さん。ドラマの連続だった野球人生を振り返る当HP編集長・二宮清純との対談は、笑いと感動で大いに盛り上がった。

 

二宮清純: 今回、対談にあたって中畑さんの生涯打率をあらためて確認したのですが、2割9分です。巨人OBの日本人右打者で2000打席以上(巨人在籍時)の選手では、長嶋さん、青田昇さんに次いで3番目でした。

中畑清 そうなんだ!? 打率は覚えていたけど、その順位は知らなかった。ミスターと青田さんの次というのは、うれしいね。

 

二宮: さらに、一塁手として7年連続でゴールデングラブ賞を受賞しています。それにしても右打者で通算打率2割9分というのは巧打者の証明ですよ。

中畑 ほめられるのには慣れていないから照れちゃうね。二宮さんはいい人だ(笑)。でもね、自分でもこんな不器用な男がよく頑張ったなと思うよ。

 

二宮: 打撃に関して、何か意識していることはありましたか。

中畑: 現役時代の中盤頃に、逆方向(ライト方向)に打つコツを覚えたのは大きかった。牧野茂コーチがアドバイスしてくれたんだ。

 

二宮 牧野さんの教えで、ほかに何か覚えていることは?

中畑: 「夏場以降は3割以上打っているんだから、開幕から夏場までにあと1分か2分だけ打率を上げたら3割バッターになるぞ」って言ってくれたんだよね。こういう言葉ってマジックみたいでさ、「そうか、あと1分か2分上げればいいんだ」と思っちゃうのよ。そのためにはどうすればいいか考え、工夫するようになった。結局、自分で考えて工夫しないと、自分のものにならないからね。

 

二宮: では具体的にどんな工夫をされたのですか。

中畑: 俺は、来たボールは何でも打つタイプだったけど、遅いボールや変化球が来た時にはどう対応するかという意識を、頭の中の6~7割占めるように変えたのよ。そうすると、きれいに打たなくてもいいと思えて、左手一本でアウトローの変化球を拾えるようになった。そうやって粘れるようになったんだ。

 

二宮: そうすると投手が苦しくなって、甘いボールが来たときに打てばいい、と?

中畑: うん。そうやってどんどん考え方の幅が広がっていったんだね。

 

二宮: 現役最後の試合となったのが、1989年の近鉄との日本シリーズ第7戦(藤井寺球場)でした。この最後の試合でホームランを打つんですから、中畑さんはやっぱり役者です。

中畑: さっきも言ったけど、この年は1年間ベンチで応援団長をやっていたのよ。しかもシリーズの勝負を決する7戦目という大事な試合に、出場機会なんてあるわけがなかった。ところが試合が始まる前、篠塚が藤田監督に、「今日は絶対に中畑さんを使ってください」ってお願いしているのを聞いてしまったのよ。俺は内心、「余計なことするなよ。この大事なときに」と思ったけど、同時に「幸せ者だな」って思ったね。

 

二宮: そうしたら本当に、出番が回ってきた。

中畑: そう。味方がツーランを打ってくれたおかげで、点差が広がり、それで俺を代打に使ってくれたんだ。

 

二宮: 相手投手は吉井理人さんでした。

中畑: 俺は「中途半端なスイングだけはしない。思い切って3球三振してやろう」と決めて打席に立った。そうしたら、初球にスライダーを投げてきて、「あっ、吉井は俺のことをまだ打者として認めてくれているんだ」と思ったんだ。

 

二宮: 引退記念の打席にはしないぞと。

中畑: うん。それで心に火がついて、「勝負してやろうじゃないか」と思って、デビューした頃の一本足のタイミングに切り替えた。そしたら今度はストレートが来て、ドンピシャでタイミングが合った。もう打球が伸びないのはわかっていたから、(スタンドに)入るかどうかわからなかったけど、大歓声が聞こえてきたときは鳥肌が立ったね。バンザイしながら一周したあの時間は、“野球の神様”がくれたご褒美だったと思っているんだ。

 

二宮: それだけ中畑さんという人はファンにも、チームメイトにも、そして野球自体にも愛されていたんですね。最後にいい話を聞きました。

中畑: だって野球しかできないし、野球大好きだもん。

 

(詳しいインタビューは12月28日発売の『第三文明』2022年2月号をぜひご覧ください)

 

中畑清(なかはた・きよし)プロフィール>

1954年1月6日、福島県西白河郡矢吹町出身。安積商業高校、駒澤大学を経て、75年のドラフト会議で巨人から3位指名を受けて入団。79年から一軍に定着し、持ち前の明るさで「絶好調男」と呼ばれ、一躍人気プレーヤーになる。一塁手として82年から7年連続でゴールデングラブ賞を受賞したほか、85年には日本プロ野球選手会の初代会長を務めた。89年の現役引退後は、巨人の打撃コーチを経て、アテネ五輪(2004年)野球日本代表のヘッド兼打撃コーチに就任。長嶋茂雄監督が病床に伏した後、本大会での指揮を託され、チームを銅メダルに導いた。その後、12年から15年まで横浜DeNAの監督を務め、19年に巨人OB会の会長に就任。現在は、野球解説者・評論家として多方面で活躍している。プロ通算打率2割9分、本塁打171本、打点621。


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