「僕の人生は“人間万事塞翁が馬”なんです」。さる12日、85歳で死去した古葉竹識さんが、口元に小さな笑みを浮かべながら、そう語ったのは今から3年前のことだ。それが最後の取材となった。

 

 広島カープを4度のリーグ優勝と3度の日本一に導いた古葉さん。現役時代は俊足巧打の内野手として鳴らした。「足で生きよう」と腹を決めたのは入団7年目、1964年のシーズンが始まってからだという。

 

 前年の63年、古葉さんは巨人の長嶋茂雄さんと終盤まで熾烈な首位打者争いを演じた。10月6日時点では長嶋さんの3割4分3厘に対し、古葉さんは3割4分2厘。ところが、その6日後、大洋・島田源太郎さんのシュートをアゴに受け、亀裂骨折という重傷を負ってしまう。入院中の古葉さんに長嶋さんから電報が届く。「キミノキモチヨクワカル 1ニチモハヤイゴゼンカイヲイノル」。傷心を癒す27文字だった。

 

 ケガは完治したものの死球の後遺症は残った。ボールが怖くなり、踏み込めなくなってしまったのだ。そうとわかれば、ピッチャーは傷口に塩を塗り込むように容赦なく内角を攻めてくる。打率は2割台を維持するのがやっと。「給料を減らされないためには足でアピールするしかない」。この年、古葉さんは打率2割1分8厘ながら、57盗塁で自身初の盗塁王に輝くのである。

 

 これだけでも古葉さんの野球人生、十分過ぎるほど“人間万事塞翁が馬”なのだが、まだ続きがある。「監督になって“走る野球”を推進するのも、あの死球が原点なんです」。75年、ジョー・ルーツ監督の退団を受け、シーズン途中で守備コーチから監督に昇格した古葉さんは、機動力野球で赤ヘル旋風を巻き起こし、広島を球団創設26年目にして初のリーグ優勝に導いた。その原動力がリーグトップの124盗塁だった。

 

 10月15日、東京・後楽園球場。巨人相手に優勝を決定付けたのは1対0の9回表に飛び出したゲイル・ホプキンスの3ラン。だが古葉さんによると、「その前のプレーの方が大きかった」。場面は1死一塁。「内野を見るとワンちゃん(王貞治)が普段より後ろに守備位置をとっていた。そこで三塁コーチャーズボックスから僕は大下(剛史)に“ファーストの前に転がせ!”と目で合図したんですよ」。絶妙のセーフティーバント。これが3ランの呼び水となった。「長い監督人生、会心の采配をひとつあげろと言われれば、あれですね。足で勝つ野球。僕の目指していた野球でした」。運命とは奇なるものである。古葉さんの場合、恨み骨髄の死球が、その後の野球人生を好転させたのである。合掌。

 

<この原稿は21年11月24日付『スポーツニッポン』に掲載されたものです>


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