岸川登俊(白寿生科学研究所人材開拓課)第139回「私が見てきた超一流の男たち・村田修一その1」

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 白寿生科学研究所の岸川でございます。今年も無事にプロ野球の全日程が終了しました。オリンピック開催にあたり通常よりも長い期間のシーズンとはなりましたが、コロナ禍の中、プロ野球に関わる全ての方々が感染防止のために尽力されたシーズンだったと思います。関係者の皆様、大変な1年、お疲れ様でした。

 

 11月20日から行われた日本シリーズは、近年まれにみる僅差のゲームが続き、選手やベンチは大変だったでしょうが、「やはり野球って面白いな」と改めて感じさせてくれました。

 

 日本一に輝いたのはセ・リーグ覇者の東京ヤクルトでした。セ・リーグの日本一は2012年のジャイアンツ以来9年ぶりということで、セ他球団ファンの方々、ヤクルトファンの皆様、おめでとうございます。

 

 さて、今回のコラムでは、前々回の続きとなる村田修一選手の話しを書いていきたいと思います。お待たせしました(笑)。

 

 何名もの選手がFAでジャイアンツに入団しましたが、彼ほど生え抜き選手同様に扱われた選手はいないと思います。言葉は悪いかもしれませんが、FAで入団した選手は”お客様扱い”で、どこか腫れ物に触るように、大事に扱われる感じだと私は思っていました。だが、彼は違いました。

 

 移籍当初こそ他のFA選手と同じでしたが、ジャイアンツでの年数を重ねると、交流戦で調子を落とせば打順を9番まで下げられたり、スタメン落ちやシーズン前でしたが二軍で調整したこともありました。これは原辰徳監督が、村田を下に落とすことで、FAやトレードなどに関係なく、チームの勝利のために選手を競争させ、ひとつにまとめていくことを考え、実行したのだと思っています。

 

 皆さんは村田修一に、どのようなイメージをお持ちでしょうか? 私が近くで接し感じたのは、村田修一という男は自分自身の変化をも恐れず、何事にもトライしてみせ、常に技術向上を求める。そして人の意見にも耳を傾けることが出来る人物だということでした。耳を傾ける相手はコーチだけでなく、打撃投手である私の言葉も真剣に聞いてくれました。

 

 移籍1年目の12年1月、自主トレ終了後に移籍組の歓迎会が行われました。そこで村田が裏方1人1人に「よろしくお願いします」と、挨拶に回る姿を見ました。これで「しっかりとした人物だなぁ」と私は早速心を掴まれたのです。

 

 その後、彼とは選手時代の後半3年間ほどを行動を共にしました。とにかくチームや仲間想いで、コーチスタッフの橋渡し役もやったりもして、特に後輩たちの面倒見が良かった記憶があります。

 

 彼の周りにはいつも後輩たちが集まり、バッティングだけでなく野球関連の質問や相談をしていました。阿部慎之助選手と共にチームリーダーとしての役目をしっかり務めていたのです。

 

 彼がジャイアンツの一時代を作ったのは間違いありません。本人は真剣に野球と向き合い、打撃に関して自分の成績が出ない時期は色々悩み、様々な練習を試みました。その中で原監督に頼まれた高橋由伸兼任コーチと私は彼のフォーム修正に取り組んでいくことになったのです。

 

 私がやったのは、第123回のコラム(「私が見てきた超一流の男たち・高橋由伸・その2」)で紹介したように、打撃投手の視点から好調時とフォームの違いをチェックするという、高橋兼任コーチとの個人練習で行ったことと同じです。

 

 15年、不調だった村田に対し、私は自分なりの感想を高橋兼任コーチに伝え、それを3人で共有していくかたちで練習を進めました。私は正面から、そして高橋兼任コーチは横や後ろからバッティングフォームをチェックし、矯正していきました。私が感じた一番のポイントは「体の開き早い」というものでした。

 

 強打者の宿命ですが、村田もまたインコースを執拗に攻められ、多くのデッドボールを受けていました。恐怖心はないとはいえ、その影響で無意識のうちに身体の開きが早くなり、自分の思ったポイントでの打撃が出来ずフォームが崩れたのだと思います。

 

 フォームの矯正は毎試合練習前に取り組み、タイミングを取り始めてから左足が地面に着地するまでの良いかたちを取り戻そうとしました。少しずつ良い感じになり、結果も伴い始めましたが、結局、その年はキャリア最低の12本塁打と低迷しました。

 

 クライマックスシリーズでヤクルトに敗退し、原監督は辞任。そして高橋兼任コーチが後を継ぎました。高橋由伸監督の誕生でこの”チーム村田”も解散だな、と思っていたところ、村田本人から「来年も改めてお願いしてもいいですか?」と言われました。そして翌16年、彼は輝きを取り戻していくのですが、このときの話は、また次回に。

 

 さて、最後になりましたが、今年も1年間私のコラムを愛読いただき、ありがとうございました。新型コロナウイルスの感染者も減ってきておりますが、また新しい変種株が世界に猛威をふるおうとしております。まだまだ先が見えないご時世ですが、共に感染予防に務めながら、日々、頑張っていきましょう。それでは皆様、良いお年をお迎えください。

 

<岸川登俊(きしかわ・たかとし)プロフィール>
1970年1月30日、東京都生まれ。安田学園高(東京)から東京ガスを経て、95年、ドラフト6位で千葉ロッテに入団。新人ながら30試合に登板するなどサウスポーのセットアッパーとして期待されるも結果を残せず、中日(98~99年)、オリックス(00~01年)とトレードで渡り歩き、01年オフに戦力外通告を受け、現役を引退した。引退後は打撃投手として巨人に入団。以後、17年まで巨人に在籍し、小久保裕紀、高橋由伸、村田修一、阿部慎之助らの練習パートナーを長く務めた。17年秋、定年退職により退団。18年10月、白寿生科学研究所へ入社し、現職は管理本部総務部人材開拓課所属。プロ野球選手をはじめ多くの元アスリートのセカンドキャリアや体育会系学生の就職活動を支援する。

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