ハンドボールの北京五輪アジア予選で中東チーム寄りの判定が相次いだ問題で、国際ハンドボール連盟(IHF)は17日、男女の五輪アジア予選を2008年1月末までにIHFの管理下で再開催すると発表した。日本男子は9月のアジア予選(愛知県豊田市)で3位となり、優勝が条件となる出場権を獲得できず、リマニッチ監督も10月末付で退任した。同予選では、男子はクウェート、女子はカザフスタンが制し、五輪出場権を獲得したが、無効となる。
(写真:9月のアジア予選で力を発揮した末松選手(5番))
 再開催の決定を受け、日本ハンドボール協会は23日、日本リーグのトヨタ車体監督・酒巻清治氏の日本男子代表監督就任を発表した。男子総監督には日本協会の蒲生晴明氏(日本協会強化本部長)が就任、女子はベルト・バウワー監督が引き続き指揮を執る。
 24日には、男子日本代表の候補選手24人が発表され、日本代表主将の中川善雄(大崎電気)、宮崎大輔(同)、末松誠(大同特殊鋼)ら無効となったアジア予選の代表選手、元代表で37歳のベテラン岩本真典(大崎電気)らが選出された。大会までには登録する16人が発表される。

酒巻清治(さかまき・きよはる)監督プロフィール
 1962年5月7日生まれ。中京大学出身。85年湧永製薬入社。96年〜2000年3月、男子日本代表コーチ。04年湧永製薬退社、スウェーデンにてコーチ修業。05年トヨタ車体ハンドボール部監督就任。


★男子ハンドボールアジア予選・田崎健太特別レポート
(※9月10日「トピックス」にて掲載した記事を再録)
 
 アジア予選に参加した五カ国のうち、北京五輪出場権を得ることができるのは一つだけ。予選前から、クウェート、韓国、そして開催国の日本の三つの国の争いになるだろうと予想されていた。二位になれば、世界最終予選の出場権が与えられるとはいえ、そこには欧州の強豪国が回ってくる。五輪に出るためには、この予選で一位とならなければならない。つまり、一敗もできない大会だった。

 予選の一試合目の韓国とクウェートの試合は、ペットボトルが投げ込まれる程の荒れた試合となった。ヨルダン人審判は、同じ西アジアのクウェートよりの笛を吹いた。韓国は、そうした審判の操作には強い国である。その韓国の選手が試合を途中で諦め、八点差という考えられないスコアで敗れた。

(写真:主将の中川は「最後の五輪予選」と決めていた)
 大会一日目の試合が終わった後、AHF(アジアハンドボール連盟)の技術代表、イラン人のアリレザ・ラヒミ議長は記者会見で「人間は誰にもミスがある。それを周りがサポートしなければならない」と語った。
 彼は英語を理解しなかったため、二人の通訳を通さなければならず、間の悪い質疑応答となった。それでも、ラヒミは、日本の報道陣が審判に不信感を抱いていることが分かったのだろう、「審判についてしか質問がこない」と冗談まじりに交わそうとした。

 06年にバンコクで行われた世界選手権予選で、クウェートは審判を買収し、大会を完全にコントロールした。日本ハンドボール協会は、AHFの上部組織であるIHF(国際ハンドボール連盟)に試合のビデオを添付して抗議の文書を送った。
 今回の大会では、IHFからドイツ人の審判が二人派遣されていた。疑惑の渦中にいるクウェート、それも大会の行方を左右する韓国戦でIHFの主審を起用しなかった理由、また大切な試合で、ミスがいつも西アジアの国に有利に働くのかという説明についても、不明瞭で的外れな答えを繰り返すだけだった。
 会見が終わった後も拍手は起こらず、気を遣った一部の人間がぱらぱらと手を叩いた程度だった。
 
 韓国が敗れ去った後、この大会で、最も重要な試合はクウェートと日本の試合だった。この試合でも起用された審判は、西アジアのイラン人だった。
 イラン人審判は、韓国戦を吹いたヨルダン人審判よりも“巧妙”だった。
 激しいボディコンタクトのあるハンドボール競技は、反則の判断に幅がある。ぎりぎりのコンタクトは素晴らしいプレーと判断されることも、反則と判断されることもある。その判断にはもちろんミスもある。ただ、その幅を意図的に操作することも可能である。
 ハンドボールの試合には、勢いが出る時間帯というものがある。日本はその時間帯でことごとくファールを取られた。前半は同点で折り返したが、後半は、クウェートは常時二点差を守った。四点、もしくは五点の差が付くと、日本に有利な笛を吹いて、“操作”している痕跡を和らげた。結局、二点差でクウェートが勝利を収め、五輪出場権獲得を決定的にした。

(写真:韓国戦前、試合前の選手紹介から大きな声援が飛んだ)
 試合終了後、会場の出入り口で、日本代表のジャージを着た下川真良が真っ赤な目でぼんやりと立っていた。下川は僕と目が合うと無言で会釈をした。
 下川は、この試合で戦術的な理由から、この試合の登録メンバーから外れていた。小柄で、スピードあるサイドプレーヤーである下川は、四年前のアテネ五輪予選でも中心選手の一人だった。
 イビツァ・リマニッチが監督になり、代表を外れた時期もあったが、再び代表に復帰した。リマニッチの練習は厳しく、精神的にめげることもあったはずだ。

 湧永製薬の社員選手である下川は今年で三十一才になった。ハンドボールは、サッカーや野球と比べると恵まれた環境にない。プレーヤーとしての力量を別にして、ハンドボールの世界では、引退を考える年である。ハンドボール部の選手は、会社から配慮を受けており、重要な仕事を任されることはない。長く選手生活を続けることは、その後、企業に残ることを考えれば、プラス評価にはならない。
 彼には家族があり、子供もいる。ここまで、踏ん張ってきたのは、五輪に出るという夢を実現するためであり、今回が最後の五輪予選になると、覚悟していた。しかし、肝心の試合でベンチに入ることもできなかった。

 公平な試合でなかったことは、国際大会で何度も不利な笛を吹かれていた下川は、はっきりと分かったはずだ。
 ゴールキーパーの坪根が、上気した顔で早足で控え室に向かっていた。坪根は僕に目で挨拶すると、下川に向かって「すまん、勝てなくて」と軽く頭を下げた。坪根と下川は同じ湧永製薬に所属している。下川より三歳年上の坪根は、下川の無念さを誰よりも理解していただろう。
 下川は坪根の言葉を聞くと、押さえていた悲しみが止められなくなったのか、顔を覆うと、その場にしゃがみ込んだ。
 僕は、彼に掛ける言葉が見つからなかった。

 日本代表は最終戦で韓国に敗れ三位となり、最終予選出場権を得ることもできず、完全に五輪出場の可能性を絶たれた。
 韓国との試合は、ドイツ人の審判が笛を吹いた。完全に中立なジャッジだった。その試合で韓国に勝つことができなかった日本は、確かにアジアの代表となるにはふさわしくなかった。そう断ずることは簡単である。

 ハンドボール界は、大学の体育会系の雰囲気を色濃く引きずっており、上下関係が強く、現役選手に対する尊敬の念が薄い。年上の関係者たちは、自分たちが力を尽くしてこなかったことを棚に上げて、公平なジャッジで敗れた韓国戦をもって、力が足りなかったことを叱責するだろう。
 言われていることの一部は当たっているため、選手たちは反論できない。いや、彼らは反論することを潔しとせず、屈辱を深く飲み込むだろう。自分たちの悔しさを分かち合ってもらえず、生活を犠牲にしてやってきたことを理解してくれないと、下を向いたまま拳を強く握りしめるだけだ。
 ハンドボールの日本代表の周りには、選手たちの無念が積み重なってきた。それがこれからも続くのかと思うと、僕は暗澹たる気持ちになるのだ。
(写真:記者会見にて。手前から門山、宮崎、コーチのローランド、監督のリマニッチ、主将の中川、末松)


田崎健太(たざき・けんた)プロフィール
1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、出版社に勤務。1999年末に退社。サッカー、モータースポーツ、ハンドボールなどスポーツを中心にノンフィクションを手がける。著書に『cuba ユーウツな楽園』(アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』(幻冬舎)、『ジーコジャパン 11のブラジル流方程式』(講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス30年戦争』(新潮社 2006年5月30日発売)がある。
田崎健太公式サイト『liberdade.com』[/b]
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