感涙なしに観るのは困難 「能登半島地震復興支援チャリティー演技会~挑戦 チャレンジ~」

 プロフィギュアスケーター羽生結弦らが出演する「能登半島地震復興支援チャリティー演技会~挑戦 チャレンジ~」が15日、金沢市内にある「健民スポレクプラザ」で行なわれた。羽生のほか、鈴木明子、宮原知子、無良崇人のプロフィギ […]

川淵三郎氏、JCL名誉顧問に就任 ~2022プレゼンテーション~

 ジャパンサイクルリーグ(JCL)プロロードレースツアー2022プレゼンテーションが4日、都内で行われた。プレゼンテーションではJCL名誉顧問に就任した川淵三郎氏、片山右京チェアマンらが登壇し、今季開幕に向けて意気込みを […]

池愛里(アジアパラ競技大会競泳日本代表)<後編>「嫌いだった水泳との再会」

 池愛里は幼少の頃からスポーツが大好きだった。球技ではバスケットボールに夢中になり、ゆくゆくは陸上をやってみたいという思いもあった。だが、ひとつだけ嫌いなものがあった。それは水泳だった。 「スイミングスクールに入っていましたが、水が怖くて最初の体験会で『絶対に辞める』と言って帰ってきてしまったんです。それからも週に1回……いや、ほとんど行っていなかったですね(笑)」  そんな彼女が競泳選手となった背景とは――。

岩田雄樹(トレーナー)<後編>「出会いと学びの14年間」

 阿部慎之助(巨人)、小川泰弘(東京ヤクルト)、増渕竜義(北海道日本ハム)……今では何人ものプロ野球選手から信頼されるトレーナーとして日々、治療を行なっている岩田雄樹。その仕事ぶりは、想像以上に繊細である。プロ野球選手の場合、1人に要する治療時間は約2時間。岩田は「1日3人が限界」と言う。それだけ1人1人に対して、心身ともに全力で治療を行なうからだ。トレーナーとして歩み始めて14年。今や7人の弟子をもつ岩田だが、「こんなに長く続けることになるとは思ってもみなかった」という。実は、辞めようと思っていた矢先、岩田はひとりの高校球児と出会った。彼から言われたひと言が、岩田の心を突き動かしたのである――。

池愛里(アジアパラ競技大会競泳日本代表)<前編>「初めて経験した“4年に一度の舞台”」

 16歳のスイマーは、電光掲示板を見てショックを隠し切れず、その悔しさは涙となって表れた――。  2014年10月20日、アジアパラ競技大会(韓国・仁川)は競技2日目を迎えていた。初出場の池愛里は前日の50メートル自由形で期待通り金メダルを獲得。しかし、狙っていた自己ベストは出ず、レース後の会見では「タイムは納得していない」と反省の弁を口にしていた。そしてこの日、池は100メートル自由形に臨んだ。前日、課題にあげていた「浮き上がりからの泳ぎ」もスムーズにいき、池は前半から飛ばした。それは「絶対に1分5秒を切る」という強い思いが込められた攻めの泳ぎだった。しかし、結果は1分5秒17。中国の選手に約1秒差で敗れ、銀メダルとなった。いつもは明るい笑顔がトレードマークの池だが、その日はレース後のインタビューでも涙が止まらなかった。

岩田雄樹(トレーナー)<前編>「小川泰弘の強さは“精神”にあり」

「このピッチャーが、本当にすごいのかなぁ……」  これが2005年から創価大学野球部の専属トレーナーを務める岩田雄樹が、小川泰弘(東京ヤクルト)に持った最初の印象だった。 「小川を知ったのは、彼が創価大学に入学してからのことです。周りから『今年入った1年の小川というピッチャー、なかなかいいですよ』という話は聞いていました。実際に会ったのは1年の冬だったかな。正直、体は小さいし、あまり話さないので、印象は薄いものでした。とてもプロで新人王を獲るような選手には見えなかった。その頃は正直、プロに行けるとも思っていなかったですね」  しかしその印象は、すぐに覆された――。

江口実沙(プロテニスプレーヤー)<後編>「プロ4年目、躍進のワケ」

「もうちょっと、ちゃんとやってみようかな……」  江口実沙が本格的にフィジカルトレーニングを始めたのは、2013年のオフだった。 「周りからは、『トレーニングをやったら、もっと良くなると思うよ』と、ずっと言われてきたんです。13年のオフにやろうと思ったのは、特に何があったからというわけではありません。その年から練習の環境を変えたら、少しだけ自分のテニスが良くなった感じがあった。それで、“フィジカルをやったら、もっと良くなるかも”と」  その“閃き”は翌年、吉と出た。

加藤裕之(コナミスポーツクラブ体操競技部監督)<後編>「改善を重ねてきた指導方針」

 チームに日本代表クラスの選手を多く抱え、自らも日本代表コーチとして2008年北京、12年ロンドンと2大会連続で五輪に帯同した加藤裕之。彼が指導者としてのスタートを切ったのは、現役引退を表明した翌年、1993年のことだ。20年以上の指導者人生を振り返り、「若い頃とは指導の仕方は変わった」と語る加藤。果たして、指導方針はどう変化したのか。

江口実沙(プロテニスプレーヤー)<前編>「1年前の雪辱でつかんだ日本女王の座」

 2014年11月8日、有明コロシアム。全日本テニス選手権、女子シングルス決勝。相手のバックハンドがサイドラインを割ったのを確認すると、江口実沙は満面の笑みを浮かべながら両手をあげ、喜びを爆発させた。「普段は(勝っても負けても)ほとんど泣かない」という彼女の目からは、涙がこぼれていた。それは1年前に流した涙の雪辱を意味していた――。

加藤裕之(コナミスポーツクラブ体操競技部監督)<前編>「内村航平、強くあり続けられる理由」

 いったい、この男はどこまで強くなるのだろうか――。昨年の世界選手権で個人総合5連覇を達成し、2008年の全日本選手権以降、12年ロンドン五輪も含め、個人総合では負け知らずの31連勝。世界体操界の歴史にその名を刻み続けているのが、内村航平である。彼が所属するコナミスポーツクラブ体操競技部の監督であり、北京、ロンドンと2大会連続で五輪日本代表コーチを務めた加藤裕之はこう言う。 「航平こそ、歴代の世界最強の選手ですよ」  07年のユニバーシアードから日の丸を背負って演技する内村を見てきた加藤に、内村の強さの所以を訊いた。

床亜矢可(SEIBUプリンセスラビッツ)<後編>「リンクに根を張り、花咲かす」

「宜しくお願いします!」  リンクから上がる時、SEIBUプリンセスラビッツに所属するDF床亜矢可は深々と頭を下げ、お辞儀をする。戦場への律儀な挨拶は、練習でも試合でも必ず行う彼女のルーティンだ。 「試合で第1ピリオドが終了した時も、第2ピリオドで自分がいいプレーできるようにお願いするんです。練習が終わっても『宜しくお願いします』と言いますね。『ありがとうございます』は引退する時。それまではいつそのリンクにお世話になるかわからないという思いがあるんです」  こうした床の真摯な姿勢は、競技にもプレーにも現われている。

川北元(全日本女子バレーボールチーム戦術・戦略コーチ)<後編>「朗平、眞鍋両監督に共通した“人を見抜く力”」

「何としてでも、オリンピックに行きたい」。13年前、単身で渡った米国の地で、川北元はそう心に誓いながら、毎日自転車を漕ぎ、さまざまな指導者の元を訪れていた。 「当時は、将来なんてまったく見えていませんでした。でも、とにかくいい指導者になりたいという思いだけで、走り回っていましたね。そして、指導者としてオリンピックに行きたいと思っていました。だから毎日、“どうやったら、あの場に行けるほどの指導ができるようになるんだろう”ということばかり考えていました」  その頃は何の伝手ももたなかった川北は、いい指導者と聞けば、その場に足を運び、どんな指導をしているのかを勉強させてほしいと直談判したという。川北の指導者への道は、まさにゼロからのスタートだったのである。

床亜矢可(SEIBUプリンセスラビッツ)<前編>「雪辱を誓うスマイルジャパンの守備の要」

 彼女の視線は、もう4年後に向けられている。「スマイルジャパン」こと女子アイスホッケー日本代表は、今年2月のソチ五輪では5戦全敗という結果に終わった。スウェーデン、ロシア、ドイツという強豪相手に善戦するも、勝利にはあと一歩届かなかった。全試合に出場したDF床亜矢可は「1試合でも多く勝って帰りたかったのに、応援してくれていた方たちに申し訳ないというか、すごく不甲斐ない結果だった」と悔しがった。「自分のできることは100%出せたと思います。それでも結果がダメだったのは力不足だったということ」と、世界のトップレベルとの距離を感じ取った彼女は、2018年平昌五輪でのリベンジに燃えている。

川北元(全日本女子バレーボールチーム戦術・戦略コーチ)<前編>「既成概念破りの“ハイブリッド6”」

 全日本女子バレーボールチームは、2012年ロンドン五輪で28年ぶりの表彰台となる銅メダルを獲得した。しかし、それは道半ばに過ぎない。なぜなら、全日本女子が目指しているのは、1976年モントリオール五輪以来となる、金メダルだからだ。  ロンドンから約2年。この間、全日本女子は常に進化し続けてきた。昨年のワールドグランドチャンピオンズカップ(グラチャン)で披露されたのは、ミドルブロッカーを通常の2枚から1枚にした「MB1」。さらに今年、その進化系として世界を驚かせたのが「ハイブリッド6」だ。果たして「ハイブリッド6」とは、どんなシステムなのか。そして、それによって全日本女子が目指すバレーボールとは――。戦術・戦略コーチを務める川北元に訊いた。

井手勇次(東京サンレーヴス)<後編>「東京浮沈のカギ握る大黒柱」

「僕はもともとサッカー少年だったんです」  井手勇次にバスケットボールを始めたきっかけを訊ねて返ってきた言葉に、驚きを隠せなかった。というのも、彼の両親はともにバスケットボールの実業団の選手であるため、当然井手も、小さい頃から両親と同じ競技に触れているだろうと考えていたからだ。しかし、埼玉県にある実家の近くにはミニバスのチームがなかったのだという。そのため、井手は幼稚園の時に2つ上の兄と同じチームでサッカーを始めたのだ。当時の彼の夢はJリーガーになること。では、井手がサッカーからバスケットボールに転向するきっかけは何だったのか。

須黒祥子(バスケットボール国際審判員)<後編>「コート上では大胆に、コート外では謙虚であれ」

「好き勝手」――バスケットボール国際審判員である須黒祥子の座右の銘だ。これは須黒が最も影響を受け、恩師として尊敬している、元国際審判員の柚木知郎からの訓えだという。 「私がまだ審判員として駆け出しの頃、柚木さんに言われたんです。『コートの上では好き勝手にやればいいんだよ。こうしたら誰かに何か言われるとか、文句を言われるとか思いながら笛を吹いたら、オマエがコートに立っている意味がないだろう』って」  須黒が柚木の言葉を座右の銘としている背景には、過去の「反省」がある。

井手勇次(東京サンレーヴス)<前編>「不退転の覚悟で果たした下剋上」

「Most Improved Player」(MIP)とは、日本プロバスケットボールリーグ(bjリーグ)で前シーズンと比較して最も成長した選手に贈られる賞である。2013−14シーズンのMIP賞を受賞したのが、東京サンレーヴスのガード(G)・井手勇次だ。島根スサノオマジックに所属していた2012−13シーズンは出場19試合(プレイタイムは55分)で12得点に留まった。しかし、東京に移籍した昨シーズンは、レギュラーシーズン全52試合にスタメン出場し、プレイタイムも1884分に増加。平均得点は15.0点(日本人選手で3位)をマークするなど飛躍的な活躍を見せた。井手は今シーズンも東京と契約。キャプテンを任されるなど、チームから大きな期待を寄せられている。

須黒祥子(バスケットボール国際審判員)<前編>「国際経験ゼロでの抜擢、味わった苦悩」

 今や日本のバスケットボール界で、彼女の名を知らない者はいないと言っても過言ではないだろう。日本人女性において国際審判員第1号の須黒祥子だ。これまで何度も国際大会で笛を吹き、その経験値を買われて2012年ロンドン五輪の審判員にも抜擢されるほどの腕前をもつ。そんな須黒が、初めて公式戦での国際舞台として笛を吹いたのが、04年アテネ五輪だった。当時は国際大会未経験の自分が選ばれた理由も、審判員としての自信もなかった須黒には不安しかなく、実際何もできなかったという思いしか残らなかったという。選ばれし審判員しか知ることのできない、もうひとつの五輪の舞台がそこにはあった――。

田中正義(創価大学硬式野球部)<後編>「発展途上の最速154キロ右腕」

 田中正義は4人兄弟の3番目。父親によれば、他の兄弟とはまったく違う性格だったという。 「他の兄弟3人は結構しっかり者でしたが、正義はふだんはぼーっとしているところがあって、忘れ物も多かったんです。ランドセルを家に置いたまま、学校に行くこともありましたね(笑)。でも、興味のあることに対しての集中力はすごかった。特に体を動かすことに関しては、当時からストイックな面がありました。竹馬でも一輪車でも、できるようになるまでは、絶対に帰ろうとしないんです。もう、泣きながらでもやり続けていましたね」  そんな田中が最も興味を持ったのが、野球だった。

細谷理(ストリンガー)<後編>「錦織圭、プロ宣言前の教訓」

 今や世界のトップ選手の仲間入りを果たした錦織圭。彼が1試合にストリング張りを依頼するラケットの数は6、7本。多い時には9本出すこともある。さらにオンコートの数も少なくなく、ストリング張りの本数もまた世界トップだという。そんな錦織だが、かつては最も少ない部類に入っていた。彼がラケットへの意識を高め、本数を増やし始めたのは、ストリンガー細谷理のあるひと言がきっかけだった。

田中正義(創価大学硬式野球部)<前編>「目覚ましい活躍の裏にあった転機」

 今春、東京新大学野球リーグおよび全日本大学野球選手権大会で鮮烈デビューを果たしたのが、田中正義だ。昨年は一度も公式戦での登板がなかった右腕は、いきなり春の開幕戦で先発に抜擢された。指揮官の期待に見事に応え、4安打11奪三振、無失点。リーグ戦初白星を完封で飾った。その後、先発、リリーフとフル回転でチームに貢献。7試合に登板し、3勝1敗、防御率0.43の好成績でチームを優勝に導いた。そして全日本選手権では4試合に登板し、ベスト4進出の立役者となった。今や「4年生ならドラフト1位は間違いない」と、プロのスカウトからも絶賛されるほどの存在となった田中。大学球界で最も注目されている右腕だ。

細谷理(ラケットストリンガー)<前編>「錦織圭、全米快挙の舞台裏」

「飛ぶ鳥落とす勢い」とはこのことを言うのだろう。今夏のテニス全米オープンで、日本人としてグランドスラム初の決勝進出を果たした錦織圭は、約2週間後のマレーシア・オープンでツアー5勝目を挙げた。さらに休む間もなく出場した楽天ジャパン・オープンでも、2年ぶり2度目の優勝を果たした。3大会連続でファイナリストとなり、世界ランキングは全米前の11位から、6位(13日現在)にまで浮上。トップ8のみに出場が許される11月のツアー・ファイナル出場も現実味を帯びてきた。その錦織のプレーをアマチュア時代から陰で支えてきたひとりが、ストリンガー・細谷理だ。

石田太志(プロフットバッグプレーヤー)<後編>「タイシが抱く“大志”」

「フットバッグだけでは食べていけないだろうな……」  これが大学時代、石田太志が抱いていた正直な考えだった。大学4年になり、周囲が就職活動を始めると、自身も興味があった海外でのアパレル業界への就職を志望した。実は2006年にカナダに留学した際、彼は現地のアパレルショップで働いていた。「海外のアパレル業界での経験があれば、就職活動で企業に興味を抱いてもらえるのではないか」と考えたからだ。石田はカナダに到着すると、すぐに履歴書を手にトロントにあるアパレルショップ、約150店を歩いて回り、「Banana Republic」というGAP社系列の会社に採用された。そこで働きながらフットバッグの修行に励んだのだ。そうした“計画”が実を結び、08年4月、石田は「コム・デ・ギャルソン」に入社。仕事とフットバッグの両立を目指した。だが、それは予想以上に厳しいものだった。

田村尚之(トレーナー)<後編>「平井門下生の活躍にトレーニングあり」

「これまでいろいろな競技のトレーニングを見てきましたが、平井(伯昌)先生のようなコーチは皆無に等しいですよ」  北島康介をはじめとする世界のトップスイマーを育ててきた平井に対し、トレーニング指導員の田村尚之は尊敬の念を抱いている。それはトレーニングに対する平井の驚くほどの熱心ぶりにあった。 「コーチは毎日、選手ひとりひとりの練習プログラムをつくらなければいけません。ふつうはそれだけで精一杯のはずなんです。ところが、平井先生は睡眠時間を削り、プログラム作成の時間をスライドさせてまで、トレーニングの時間も選手に付き添う。今は大学の仕事もあってなかなか来られなくなりましたが、以前は毎回トレーニングルームに顔を出していましたよ」  そんな研究熱心な平井の存在があったからこそ、競泳界ではタブーであったウエイトトレーニングの成果が競泳に結びつき、北島らメダリストが誕生した。田村はそう考えている。

石田太志(プロフットバッグプレーヤー)<前編>「日本フットバッグ界のパイオニア」

「フットバッグ」(Footbag)というスポーツをご存知だろうか。5センチほどの大きさ(規程は直径2.54センチ〜6.35センチ、重量20〜70グラム)でお手玉のように柔らかいバッグ(ボール)を足で蹴るスポーツである。バレーボールのようにネットを挟んでバッグを蹴りあう「フットバッグ・ネット」、 連続で蹴り続ける回数・時間を競う「フットバッグ・コンセキュティブ」、華麗な足技を競う「フットバッグ・フリースタイル」など、様々な競技がある。そのフットバッグの世界大会「第35回IFPA World Footbag Championships」が今年8月、フランス・パリで開催され、ひとりの日本人が「シュレッド30」(30秒間でどれだけ高度かつ色々な技を繰り出せるかを競う)という種目で王者に輝いた。男の名は石田太志。世界で唯一のプロフットバッグプレーヤーとして、大会出場などのほかに、競技の普及活動も行う日本フットバッグ界のパイオニアである。

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