カープは球団の組織を株式会社化することで、なんとかプロの球団としての体裁を整えた。これが昭和25年9月3日。シーズンも終盤に入ってのことだった。


 肝心の試合は連敗続きだったが、株式会社と体制を整えたということにおいて、選手を含め、球団関係者は「よかった」と、ホッと胸をなで下ろしたはずである。

 

 初年度のカープは、とにかく給料の遅配・欠配に泣かされ、まさに波乱に満ちたシーズンを送った。同時期に日本をとりまく情勢にも様々な変化があり、またプロ野球も始まったばかりの2リーグ制に戸惑いながら過ごした。そして社会人野球、いわゆるノンプロ球界でも大きなトピックがあった。

 

 世界選手権とマッカーサー

 この年の夏に行われた都市対抗は全鐘紡が優勝を飾った。その優勝チームと、なんとアメリカ社会人野球チーム「ケープハーツ」の間において、「第一回ノンプロ世界野球選手権」と銘うった対抗戦が行われたのだ。

 

 全鐘紡対ケープハーツの試合は計5試合が行われ、いずれも熱戦となった。9月10日、初戦の舞台は後楽園で、試合前にはマッカーサー夫人が始球式を行った。この時の始球式の方法は、マウンドからキャッチャーに向けて投げるのではなく、一塁側のケープハーツ側スタンドの座席から夫人がグラウンドにボールを投げ入れる方式だった。

 

 式典では最初に日本野球の復興を手掛けたとされるマーカット少将の言葉が述べられ、その後に夫人の出番となった。当時の新聞から引用する。

 

<マーカット少将の開会の辞につぎ、マッカーサー元帥夫人の一塁側スタンドからの始球式があって、同二時半、米軍先攻で開戦の幕をきっておとした>(「中国新聞」昭和25年9月10日)

 

 試合はケープハーツが初回に先取点をあげ、その後もそつない攻撃で着実に得点を重ね、全鐘紡は1対6で敗退した。鐘紡は終戦の翌21年から復活した都市対抗で優勝しており、いち早く復興を遂げたチームであったが、その実力を持ってしてもアメリカにはかなわなかった。結局、5試合で日本は1勝4敗と、アメリカに完敗した。

 

◎ノンプロ世界選手権試合結果
9月10日 アメリカ(ケープハーツ) 6―1 日本(全鐘紡)後楽園
9月11日 アメリカ(ケープハーツ) 11―3 日本(全鐘紡)後楽園
9月13日 アメリカ(ケープハーツ) 0―1x(延長13回) 日本(全鐘紡)甲子園
9月14日 アメリカ(ケープハーツ) 8―4 日本(全鐘紡)西宮
9月15日 アメリカ(ケープハーツ) 6―1 日本(全鐘紡)後楽園

 

 余談だが、この社会人野球チーム「ケープハーツ」の名にピンときた方がいたら、相当にコアな野球ファンである。世界のホームラン王・王貞治ソフトバンク会長が中学生時代、「厩四ケープハーツ」という東京・隅田区厩橋(現本所)4丁目にあった地元の野球チームに所属し、試合を行っていた。「あのチーム名はアメリカのチームに由来している」と王会長は著書で述べている。


 さて、夫人が始球式を務め、日米対決のVIPとして迎えられていた一方、夫であるマッカーサー元帥は朝鮮半島情勢に絡み、大きな局面を迎えていた。米トルーマン大統領との会談の中で、「38度線を超え、連合国軍として北朝鮮に攻め入るか否か」との判断を担わされ、その旗振りが注目されていた。


 翌26年、日本はサンフランシスコ講和会議に参加し、吉田茂首相により講和の宣言文が読み上げられ、国際社会への復帰を果たした。この時点の日本は、まだ占領下におかれていたが、明るい兆しが見え始めてもいたころである。当時の世相をいくつか取り上げてみよう。


 9月11日には力道山が突然の引退を発表し、世間を驚かせた。まだプロレスラー力道山ではなく、大相撲の力道山としての引退であった。街頭テレビで日本中を熱狂させる空手チョップを披露するのはもう少し先のことである。力士・力道山の引退から4カ月後、年明けの1月3日にはのちに長寿番組となる第1回紅白歌合戦が行われた。復興を願った「リンゴの唄」の発表から5年の歳月を経て、音楽文化も戦後の大衆娯楽として根付いていくのである。


 そんな世相の中、カープはといえば、日本の新時代の息吹を感じながらも、勝てない日々にもがき苦しみ、連敗が続いた。シーズン終盤、10月以降に記録した連敗を追ってみよう。


 10月6日、後楽園で大洋に1対6で敗れ、以降17日まで6連敗。さらに19日から4連敗。あげく11月に入ってからは、3日、阪神とのダブルヘッダーの初戦こそ8対6で勝ったものの、第二試合から14日まで、シーズン最多の13連敗を喫してしまう。

 

 もはや「金輪際、勝てないのか……」とファンに思わせる程に弱体化していたカープ。唯一、勝率で上回っていた国鉄に対しても力尽き、11月11日、日生球場(大阪)でのダブルヘッダーで連敗すると、国鉄に同率7位と並ばれ、翌12日、中日球場に所を変えて行われた国鉄戦に敗れ、ついに最下位となり、そのままシーズンを終えた。

 

 結局、初年度の成績は41勝96敗1分け、勝率2割9分9厘。優勝した松竹には59ゲームも離されていた。

 

 宿舎の決起集会

 "弱いカープ"ではあったが、チーム初年度において、5月、6月は勝率5割を越えていたことは、第38回の当コラムで紹介した。このときは広島県からの出資が実行され、1カ月平均で約80万円から90万円程度と言われていた選手の人件費が賄われた。つまり給料が支払われた時期であった。

 

 給料さえきちんと払われれば、我々だって戦える--。

 

 選手がこう考えるのも無理もない。そしてシーズン終了後、選手たちはある行動に出た。「給料を払え!」との旗印を掲げ、球団との直談判に乗り出したのである。普通、労働争議は「給料を上げろ!」と要求するものだが、それが「払え!」という、ごく当たり前の権利を主張するのだから、初年度カープの懐事情が伺い知れるというものだ。

 

 シーズン当初、カープは広島市西側の観音地区にあった三菱の寮を借り、選手らの寝泊まりを確保していた。ここには故郷を離れて広島にやってきた若手だけでなく、所帯持ちの選手も入っていた。だが、選手の給料も支払えない球団が寮の家賃や光熱費を払えるはずもなく、やがてそこを追い出され、選手たちは、逃げるようにして皆実町の御幸荘に駆け込み雨露をしのいだ。

 

 こうした状況で、給料の遅配や欠配である。敗戦続きの苛立ちもあったのだろう。シーズン終了と同時に選手たちの怒りは頂点に達した。

 

 声を上げたのは主将の辻井弘をはじめ、野手と投手の二刀流で奮闘した武智修、かつての奪三振王であるベテラン投手・内藤幸三である。

 

 彼らは最初、選手らに声をかけ、宿舎の一室に集まり、こう言った。

 

<僕たちは原爆の都市、広島に希望を持たせようという大きな夢をもってカープ入りした。残念ながら、テール・エンドに甘んじたが、力いっぱいやったことは確かだ。給料の遅配で、たばこ銭にもこと欠くほどの悪条件下、ここまでやってきたのは誇りでさえある>(「読売新聞」カープ十年史『球』39回・昭和34年連載)

 

 一年間、苦楽を共にしてきた選手らにとって、実に明解な言葉で、選手らの胸を打った。「そうだ、そうだ」「その通り」と選手たちから声があがり、さらに辻井主将は続けた。

 

<ワシは全選手の名で会社に強硬に申し入れしたいと思う>(「読売新聞」カープ十年史『球』39回・昭和34年連載)

 

 この辻井の発言に異論があろうはずがなかった。炊き出しの米に不自由しながらも、空腹を抱え、1年間、同じ釜のメシを食ってきた仲間たちである。

 

 選手の1人が、こう応じた。

 

<同感です。会社の窮状はわかるが、これ以上給料が遅れるとわれわれは干し上ってしまう>「読売新聞」カープ十年史『球』39回・昭和34年連載

 

 さらにある選手も声をあげた。

 

<選手会の名で会社へ遅配解消を要求しましょう>(「読売新聞」カープ十年史『球』39回・昭和34年連載)

 

 戦後すぐのプロ野球は、先の見えない時代の中で、復興を象徴する娯楽ではあったものの職業的地位はまだまだ低く、ヒロイズムも確立されていなかった。まだまだ不安定な地盤の上に置かれていたのである。

 

 そうした中、原爆からの復興を担い、創立されたカープには、ここに入団する意義を噛み締め、郷里から単身赴任でやってきた選手も数多くいた。年末には凱旋とまでは言わないまでも、手土産を持ち、家族のところに帰りたいと願ったのも当然である。

 

<とくに家庭を持つベテラン選手は、きょう、あす、というところまで追いつめられていた。シーズンを終えて初めて帰るこのオレを玄関で迎える妻、子の顔が浮ぶ。手みやげの一つも持って帰りたい-->(「読売新聞」カープ十年史『球』39回・昭和34年連載)

 

 宿舎の一室で「そうだ、そうだ!」と声をあげた選手たちの、実に切なる願いである。堪忍袋の緒も切れかけ、爆発寸前。妻や子どもを残す選手たちは無事に正月を郷里で迎えることができるのだろうか。ささやかな餅代を懐に忍ばせ、家族に会うことができるのだろうか。果たして……。
(この章・完)

 

 次回予告 今回まで8回でお伝えしてきた「カープ初年度の苦難編」はこれで完了とし、22年1月からは「カープ二年目の解散の危機編」をお送りする。第1回は選手らの直談判を受け、この窮地を救ったある1人の人物を紹介する。カープを陰から支え続けたある男の話である。乞うご期待。

 

【参考文献】 「中国新聞」(昭和25年9月11日、12日、13日・14日・15日・16日)、「読売新聞」カープ十年史『球』39回・昭和34年連載、「読売新聞」(昭和25年9月15日・16日)、「朝日新聞デジタル」(「王貞治さん、江戸川河川敷での打率は 60年前のスコア」2015年4月3日配信)

 

<西本恵(にしもと・めぐむ)プロフィール>フリーライター
1968年5月28日、山口県玖珂郡周東町(現・岩国市)生まれ。小学5年で「江夏の21球」に魅せられ、以後、野球に興味を抱く。広島修道大学卒業後、サラリーマン生活6年。その後、地域コミュニティー誌編集に携わり、地元経済誌編集社で編集デスクを経験。35歳でフリーライターとして独立。雑誌、経済誌、フリーペーパーなどで野球関連、カープ関連の記事を執筆中。著書「広島カープ昔話・裏話-じゃけえカープが好きなんよ」(2008年・トーク出版刊)は、「広島カープ物語」(トーク出版刊)で漫画化。2014年、被爆70年スペシャルNHKドラマ「鯉昇れ、焦土の空へ」に制作協力。現在はテレビ、ラジオ、映画などのカープ史の企画制作において放送原稿や脚本の校閲などを担当する。2018年11月、「日本野球をつくった男--石本秀一伝」(講談社)を上梓。2021年4月、広島大学大学院、人間社会科学研究科、人文社会科学専攻で「カープ創設とアメリカのかかわり~異文化の観点から~」を研究。

 

(このコーナーは二宮清純が第1週木曜、フリーライター西本恵さんが第3週木曜を担当します)


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