カープは郷土広島の県民市民チームであり、かつ、プロ野球チームとして、地元広島県に根ざし、すべての県民市民が支えるチームであると、高邁な理想を掲げてスタートした。出資は広島県や広島市をはじめ、呉市、福山市、尾道市、三原市らで、広島県の東部側にまで及んだ。これら東部側自治体の出資には、その地元の選手入団時期に合わせて出資がなされるなど、特有の事情も重なったこともあり、資金の提供が遅れたのは前回お伝えした通りだ。

 

 公募期間の延長も

 最初のシーズンはなかなか勝てないことから、選手への給料の遅配や欠配が起こり、日を追って、球団経営は圧迫され、選手らをまかなう台所事情も苦しくなっていった。

 

 その元凶のひとつには、カープは母体組織がしっかりしていなかったことにある。要は、株式会社化されていなかったのである。シーズン当初には組織がない状態にあり、その状況でチームは半年間も戦い続けたのだ。

 

 では、なぜ、出資元となる株式会社としての体をなしていない組織であっても、お金が集まったのか? そうした素朴な疑問が沸いてくる。

 

<最初の方針は二千五百万円の半分千二百五十万円で選手を集め、残り半分と試合収入をもって、経営に当てるつもりであったが、肝心な県、市の出資が遅れた>(「中国新聞」「広島カープ十年史」39回・昭和35年1月7日)

 

 この出資が遅れた上に、株式会社としての体をなしていない状況下でありながら、一般の株式の公募をも行うという策に出たカープだが、当然のように思うようにいかなかった。シーズン中に締め切りを5月まで延期しながら、株式の公募を続ける有様であった。

 

<株式募集の期日を「自昭和25年3月20日至昭和25年4月20日」とあるのを「自昭和25年3月20日至昭和25年5月20日」と一カ月延長している>(「中国新聞」「広島カープ十年史」40回・昭和35年1月8日)

 

 こうした中、被爆からの復興最中とあって、市民や投資家からの出資は見込めなかった。結局は、銀行から金を借り、何とか800万円を用立ててもらい、選手を集めたのである。文献にはこうある。

 

<そこで芸備銀行、広島相互銀行などからお金を借り、発起人も個人の金を出すなどして800万円が集められ>(「中国新聞」広島カープ十年史・昭和35年1月7日)

 

 しかし、筆者が、草創期の職員を幾度となく取材し、そこで聞かされた話は「一度に800万円あったのではなく、現金はその半分以下の300万円程度」であったという。

 

 空白の12日間に動き出す

 カープは夏場の8月から9月にかけて、連敗続きであった。特に8月は12連敗を喫し、チームの存在すら危ぶまれた。こうした中、なぜか、シーズン終盤にさしかかった8月末に、カープの公式戦が開催されない期間があった。

 

 8月27日、広島で国鉄とのダブルヘッダーで連敗してから、9月9日の阪神戦(3対4でカープ敗戦)までの12日間、試合が行われていない(3日の大洋対廣島戦・中日球場は雨天中止)。12日間も試合興業が全く行われないのは、現代のプロ野球で考えればありえないことである。なぜか--。要因は選手、組織ともに問題があったと推察される。文献にはこうある。

 

<弱くて、スター選手の少ない広島は、遠征に出ても不人気の筆頭>(『カープ30年』中国新聞社)

 

 このようにセントラル・リーグ連盟はカープの存在に苦悩を示していた。では球団経営はどうかとなるが、この初期のカープの経営に携わっていたのは、設立の主旨を作成した谷川昇である。谷川は戦時中の活動によってパージにかかっていた。その他には谷川の母校である広島一中の野球部OBで、カープの世話をしていた広藤省三や、毎日新聞に勤務の後、陰からカープを支えた渡辺謙二らの名前もある。

 

 渡辺は元代議士・谷川がカープにかかわり続けていては、その存在が球団経営に政治色をにじませかねないと危惧し、互いのためにならないと、谷川をカープから手を引かせた人物である。初期のカープにはさまざまな人物が携わっており、いったい誰が代表なのか、誰が責任者なのかわからない。無組織状態が続いたのだ。

 

 大物出資をあてこむ社長人事

 いきなりの経営難に陥ったとしても、やはり会社の顔となる、社長を決めなければならない。というわけで、社長候補に上ったのは、何よりも資金の豊富な人物であった。筆頭は復興期当時、地元広島の土建工事を手広く行っていた藤田組の藤田定市である。

 

 藤田は親戚者らに政治家も多く、当然ながら、元代議士の谷川が、望む人物ではなかった。<(谷川が)首を横に振ってオジャンになった>(「読売新聞」カープ十年史「球」38回)とされる。

 

 さらに、名が挙がったのは、鉄は国家なりとばかり、戦後の復興を着実に押し進めていた日本製鉄社長の長野重雄である。長野は広島県呉市沖の下蒲刈島の浄土真宗本願寺の名刹・弘願寺を実家とし、政財界で活躍した長野六兄弟の次男で、東京県人会第四代目の会長でもあり、初期のカープを物心両面で支えた。

 

 長野自身も周囲から推され、カープ社長への意を固めたところであった。しかし、ここにも横槍が入った。当時の大蔵大臣であり、カープ東京後援会初代会長である広島出身の池田勇人が、自分の息がかかった檜山袖四郎(県議会副議長・当時)を社長へと推し進めた。もともと、野心のない長野である。池田某と争ってまでの社長への意欲はなく、長野就任は立ち消えとなった。ただし、当初は株式会社の会長としての名前だけは連ねた。

 

 さまざまに揺れ動いたパワーゲームの中で、カープの初代社長の椅子には檜山が座り、会社設立へと向かった。

 

 9月3日、カープは株式会社組織設立へと乗り出した。廣島商工会議所二階で設立総会を開き、取締役として重役陣を取り揃えて、カープが正式に株式会社として再出発を果たした。加えて、かねてから、懸案だった事項にもメスを入れた。試合の売上の不明瞭さの原因となっていた組織の排除に乗り出したのだ。

 

 当時の新聞には、経営の浮沈の鍵を握るチケット販売における不明瞭さを解消することが記されている。

 

<今後、同会社は、従来助成会に委任していた試合興行を来る九、十日の廣島試合を皮切りに直接引き受けることになり、名実ともに健全な会社となったので、とかく悲運にあったカープの将来に明るい見通しを約束させた>(「中国新聞」昭和25年9月4日)

 

 不透明な"中抜き"

 ここに記されている、カープの試合興行の委託先である助成会とはいったい何であったのか--。文献をあたると、「日本プロ野球広島助成協会」という組織が浮かび上がった。プロ野球は興行としてチケットの販売枚数だけ売上が立つのは当然である。しかし、創立当初のカープは、そうならない"黒い影"があった。今年で創設から71年が経っており、当時の話はすでに時効であろう。ここに記させていただくとする。

 

<そのころのプロ野球はフランチャイズ制ではなく、一試合二十万円のギャランティを連盟に収め、連盟では勝チームに六、負けチーム四の割(*注1)で一カ月をまとめて各球団へ還元していた>(「読売新聞」カープ十年史『球』第31回)

 

 カープは、地元での試合はさておき、遠征に出れば、観客の入りが少ないうえに、加えて、連敗続きのカープには還元されるお金も少なく、食えない日々が続いた。さらにカープの場合は、"中抜き組織"の影響でチケットの売り上げが収入に直結しなかったのである。

 

<興行元として百万円の資金でつくられた『日本プロ野球広島助成協会』にもっぱら頼んでいた>(「読売新聞」カープ十年史「球」31回)

 

 この存在があってか、観客の入りと、チケットの売り上げが合わず、関係者が首をかしげるということも少なくなった。

 

 シーズン当初、この入場料問題が最初に起ったのは昭和25年2月26日とされる。広島総合球場でのオープン戦の松竹戦での出来事である。長谷川良平が二軍戦であったが、プロ初登板となり、九回まで投げ抜き、「未来のエース」を予感させた日となったが、その裏でことが起っていたとされる。「おかしい、チケットの枚数と、申告される売上が合わない」と騒ぎになった。

 

<広島財務局出張所から入場税調べに、七人の係員が、球場に派遣された。その見積もりでは観衆九千人であったが、同協会のキップ売上は六千枚しかない。約三千枚の食い違いだ>(「読売新聞」カープ十年史「球」31回)

 

 戦時中の統制下におかれた名残はあったろう。さらにGHQの支配下にあった日本で、自由で民主国家として動き出したものの、組織の闇で、抜いた、抜かれた、の慣習はいかなる世界にもあったことは簡単に想像できる。戦後すぐの広島には、甘いエキスを吸おうというヤミの組織が多かったのだ。

 

 これらを一掃すべく、カープの重役陣には、当然ながら監査役も置かれることとなった。当初の重役陣を「中国新聞(昭和25年9月4日)」から抜粋しよう。

 

【取締役】
会長(予定) 長野重雄(日鉄社長)※後、富士製鉄
社長    檜山袖四郎(県議会副議長)
宮地憲三(弁護士)
三浦正 (町村会長)
伊藤信之(電鉄社長)
山本正房(中国新聞専務)
【監査】
横山周一(廣島商工会議所専務理事)
佐野弘 (県議)

 

 こうした盤石な組織が生まれ、売上げの不明瞭さが解消されるようになり、株式会社組織として成立したカープは巻き返しから躍進へ。関係者もファンもそう期待した。

 

 希望の船出と隠し球

 8月28日から、9月8日までの中断期間を経て、9月9日と10日と、広島総合球場において、新装なった廣島野球倶楽部株式会社の主催による試合が開催されることになった。関係者は健全な経営ができると心躍らせたであろう。

 

 9月8日の中国新聞には、「セ・リーグ廣島シリーズ」と銘うって、大洋、松竹、廣島、阪神と4チームが2日間のダブルヘッダーで合計4試合を行うと広告が出された。カープは初日、阪神戦で、二日目に松竹との対戦となる。入場料は、<前売り内野一三〇円、外野八〇円(当日内野一五〇円、外野一〇〇円)、小人内野八〇円、外野五〇円〈当日内野一〇〇円、外野八〇円〉>と記されていた。

 

 さあ、この日から"儲かる球団"に生まれ変わるんだ--。その期待を胸に秘め、いよいよ、プレイボールとなった。

 

 9日、カープは必勝を期し、休養十分の長谷川を先発に立てた。一回裏に無死満塁で、四番辻井がレフトに打ち上げ、タッチアップで幸先よくカープが先制。援護をもらった長谷川の投球も冴え、三回まで阪神打線を無安打に抑えた。だが、阪神も四回表に長谷川を攻め、エラーと2つのフォアボールでワンアウト満塁とし、ショートゴロの間に同点。さらに左中間にツーベースヒットで1対3となった。

 

 その後、阪神は五回表に1点を追加して、1対4。しかし、カープは五回、六回と1点ずつあげて追い上げを見せる。九回裏はまずは同点にせよとばかり、五番の樋笠一夫が、三遊間を抜いて出塁し、阪田清春がバントで手堅く送った。ツーアウトになったものの一打同点の場面。なにがなんでも、株式会社化された新生カープの記念すべき一勝をつかみたい、そんな気持ちの中で、コトが起った。

 

 突然、「アウトー!」のコールが響き渡る。なぜかランナーの樋笠がタッチアウトとなった。いったい何が起ったのかと首をかしげる樋笠。グランドに不穏な空気が漂った。唖然とする樋笠であるが、阪神のセカンド・白坂長栄の技ありの隠し球であった。二塁ランナーの樋笠の視線を逃れ、隠し持った球で離塁した間にタッチし、スリーアウト。あっけない幕切れとなった。

 

 呆然とするカープ選手に加え、とまどうファン。株式会社化されたチームの初戦を飾ることはできなかった。こうした悪い結果は、尾を引いてしまうから恐ろしい。翌日は、首位をひた走る、水爆打線の異名をとる松竹が相手であった。

 

 初回、松竹は小鶴の35号スリーランで先制し、カープはいきなり3点のビハインドを背負った。二回にも再び小鶴の一発が飛び出し、さらに長短打が乱れ飛び、あれよあれよで7点を失った。二回表の時点で0対10の大差がついた。

 

 カープは二回裏に2点を返したが、すでに勝負の行方はついており、試合はその後、両チーム無得点で進み、2対10とカープは大敗した。翌日の中国新聞には、

 

<大勢はいかんともなしがたく完敗を喫した>(昭和25年9月11日)と書かれていた。

 

 この後、9月21日まで、カープは8月25日から続いていた連敗を9にまで伸ばし、いわゆる泥沼にハマった。経営面での体制がなんとか整い、飛躍できるはずであったが、チームの戦力はいかんともしがたく、厳しいシーズン終盤となった。

 

 この苦難の戦いはグラウンドの上だけのものではなかった。選手らはこの後、シーズンオフまで続くいばらの道を歩むこととなる。カープナインに待ち受けるさらなる試練とは……? そもそも鯉という生き物はどんな水質でも環境でも適応できると言われているが、それにしても我が郷土の鯉軍団はいつまで泥沼を泳ぎ続けなければならないのか……。次回も心してお読みいただきたい。(つづく)

 

【*注1】 他文献には勝チームに7、負けチーム3との表記もある。

【参考文献】 『カープ50年―夢を追って―』(中国新聞社・広島東洋カープ)、『カープ30年』冨沢佐一(中国新聞社)、「読売新聞」カープ十年史「球」31回、「読売新聞」カープ十年史「球」38回、「中国新聞」(昭和25年9月4日)、「中国新聞」(昭和25年9月10日)、「中国新聞」(昭和25年9月11日)、「中国新聞」広島カープ十年史39回(昭和35年1月7日)、同40回(昭和35年1月8日)

 

<西本恵(にしもと・めぐむ)プロフィール>フリーライター
1968年5月28日、山口県玖珂郡周東町(現・岩国市)生まれ。小学5年で「江夏の21球」に魅せられ、以後、野球に興味を抱く。広島修道大学卒業後、サラリーマン生活6年。その後、地域コミュニティー誌編集に携わり、地元経済誌編集社で編集デスクを経験。35歳でフリーライターとして独立。雑誌、経済誌、フリーペーパーなどで野球関連、カープ関連の記事を執筆中。著書「広島カープ昔話・裏話-じゃけえカープが好きなんよ」(2008年・トーク出版刊)は、「広島カープ物語」(トーク出版刊)で漫画化。2014年、被爆70年スペシャルNHKドラマ「鯉昇れ、焦土の空へ」に制作協力。現在はテレビ、ラジオ、映画などのカープ史の企画制作において放送原稿や脚本の校閲などを担当する。2018年11月、「日本野球をつくった男--石本秀一伝」(講談社)を上梓。2021年4月、広島大学大学院、人間社会科学研究科、人文社会科学専攻で「カープ創設とアメリカのかかわり~異文化の観点から~」を研究。

 

(このコーナーは二宮清純が第1週木曜、フリーライター西本恵さんが第3週木曜を担当します)


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