天皇杯効果なのか、高校サッカーがやけに楽しい。

 

 元日に日本のトップクラスの試合を見る。その後で見る高校サッカーは、どうしても物足りなさというか、粗っぽさが目についてしまうところがあった。

 

 だが、年末のうちに天皇杯決勝が終わっている今年の場合、高校サッカーは新年最初に目にする日本のサッカーということになった。例年に比べれば、脳裏に残る大人たちの残像も薄い。だからこんなにも楽しめるのか、とも思う。

 

 ただ、それだけではない部分もある。

 

 ベスト4に進出した高川学園のグルグル・セットプレー。やっている本人はスペイン語「嵐」を意味する「トルメンタ」と名付けているようだが、世界中、どこもやっていないことを自分たちでやってみようという発想がまず素晴らしい。いや、素晴らしいを通り越して、とてつもない。

 

 日本に限らずサッカーは模倣の連続で成り立っている。誰かが、どこかが凄いこと、新しいことをやれば、瞬く間に数えきれないほどの模倣者が現れる。スタンレー・マシューズがいなければフェイントの進化は大幅に遅れていただろうし、74年のオランダがなければ“コンパクト”という概念が世界中に広がることもなかった。世の中は、誰かが何かを始めたら飛びつこうとする人たちで溢れている。

 

 一方で、自分たちで新しい何かを始めようとする人は、全世界を見渡してもそれほど多くはない。少なくとも、これまでの日本サッカー界にはそうした動きはほぼ皆無だった。

 

 それだけに、山口県の高校生たちが編み出したという「トルメンタ」という発想には、今後その成否がどうなっていこうとも、個人的には全面的な賛辞を贈りたい。プレーを続けるにせよ、プレーヤーとは違う形でサッカーに関わっていくにせよ、完全にサッカーからは卒業するによせ、誰もやったことがないことをやるという発想は、大切にしていってもらいたいと切に願う。

 

 早い段階で姿を消してしまったが、その戦いぶりに強い印象を受けた学校がもう一つある。長崎代表の長崎総合科学大付である。

 

 全国大会に出てくる学校の多くは、「いいサッカー」をやろうとしている。悪いことではもちろんない。内容を度外視して、ただ結果だけにこだわるチームが珍しくなかった時代を思えば、それだけで隔世の感がある。

 

 だが、長崎総合科学大付のサッカーが目指しているのは、他の学校とは少し違っているように見えた。「いいサッカー」の追求ではなく、長崎らしい、九州男児らしいサッカーを志向しているように感じられるのだ。

 

 九州には縁もゆかりもない人生を送ってきたわたしだが、それでも、九州男児と聞けば勇敢さ、逞しさといった言葉を連想する。

 

 1対1で相手と対峙すれば、まずパスを選択する日本人選手がほとんどの時代にあって、長崎総合科学大付の選手たちはまず仕掛けることを考えていた。ゴリゴリと骨のぶつかりあう音が聞こえてきそうな無骨な突破は、相当に異色で、かつ、魅力的だった。

 

 Jのチームでさえ、地域性、県民性を考慮してチームづくりをしているところはそうない。それだけに、土の匂いがする長崎総合科学大付のサッカーには、抗いがたい魅力があった。全国で見たいチームがまた一つ、増えた。悪くない一年の幕開けである。

 

<この原稿は22年1月6日付「スポーツニッポン」に掲載されています>


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