要田勇一の記憶によると、2005年シーズン前だったという。

 

 要田たちのボール回しにブルガリア代表のイリアン・ストヤノフが入った。「ボール回し」とは世界中でどこでも行われているウォーミングアップの一種である。選手たちが輪を作り、パスを回す。中に入った選手がそのボールを追うのだ。ボールを奪われた選手は、代わって中に入る。ワンタッチやツータッチなどの制限を加えることもある。

 

 イビチャ・オシム監督の薫陶を受けているジェフユナイテッド千葉の選手は、判断が速く、素早くボールを回した。身体が大きく、やや俊敏性に欠けるストヤノフはなかなかボールを奪うことができなかった。やがて若い選手たちは、声を出してパス回しの速度を上げた。日本に来たばかりでほとんど言葉を理解しないストヤノフは、自分が揶揄されていると感じたようで、表情が険しくなった。

 

 欧州選手権にも出場した経験あるディフェンダーの彼は、誇り高い男である。怒りの標的が要田に向かった。軽くかわされた後、要田の胸ぐらをつかんだのだ。一見穏やかに見える要田も気は強い。やるのか、と要田も日本語で応じ、他の選手たちが慌てて2人を引き離した。

 

 日本では感情を押し殺し、人の考えを読み取り、輪を保つことが美徳とされる。しかし、これは世界のごく例外である。労働者階級出身の人間がほとんどのサッカーの世界では、主張のない人間は存在しないのと同じである。そして、人は時に角を突き合わせることで、互いの距離を詰める。ストヤノフは要田に悪意がなかったことを認め、要田もストヤノフの孤独を理解した。

 

 奇しくも2人は同じ77年生まれ。20代前半の選手が主であるジェフの中では年長となる。2人は一緒に食事に行くようになり、そこに残り2人の外国人選手、マリオ・ハース、ガブリエル・ポペスクも加わった。ときに要田の弟である章の友人が運転する車に乗って、六本木まで出かけた。片言の英語でサッカーを共有する仲間は十分に理解し合えた。パラグアイでプレーしていた要田は、外国人選手との付き合いの勘所を掴んでいた。要田はまるでジェフの“外国人選手グループ”の一員のようだった。

 

 3月5日、05年シーズンが開幕した。初戦の相手は、名古屋グランパスだった。

 

 マリオ・ハースと巻誠一郎のツートップに、水野晃樹、阿部勇樹、佐藤勇人、坂本將貴、そして羽生直剛の若い中盤が走り回る、3-5-2のシステムだった。この試合で要田は控え選手としてベンチに入った。しかし、出番は与えられなかった。試合は2対2の引き分けで終わっている。

 

 翌週の第2戦、オシムは先発を少し変えた。

 

 ハースと巻のツートップはそのまま、中盤の水野に代わりに工藤浩平を入れた。そしてフォワードの控えに、9番をつけた林丈統を置いた。

 

 80年生まれの林は、要田よりも3つ年下に当たる。滝川第二高校からジェフに入った。小柄で俊敏、ディフェンダーとの駆け引きも得意。強気なフォワードらしい男だった。

 

 林丈統の台頭

 

 オシムの選手起用は明快だ。

 

 79分に中盤の羽生に替えて林を入れた。調子に波はあるが、才能ある林は、後半最後に入れるスーパーサブとしては適任だったろう。ただし、この試合も2対2の引き分けだった。

 

 試合を重ねるうちに、このシーズンのチーム構成が固まってきた。

 

 中盤は、前出の6人に加えて、ポペスク、山岸智を加えた8人、前線はハースと巻、控えに林。

 

 オシムのサッカーでは特に中盤の選手に運動量を求める。選手の調子を見ながら、最適解を試合ごとに探っていく。当然、フォワードの交代枚数が減る。“4番目”のフォワードである要田はベンチにさえ座れなくなった。

 

 出場機会が得られず、じれているのではないかと心配してぼくが電話したことがある。

 

「きちんと練習していれば、オシムさんは見てくれるから」と言うと「分かっています」という明るい声だった。オシムへの絶大な信頼感に、ほっとしたものだ。

 

 彼が再び控えメンバーに入ったのは、第15節、7月9日のアルビレックス新潟戦のことだった。実に4ケ月ぶりだった。

 

(写真:05年7月9日、静岡FCの試合風景)

 この日、ぼくは新幹線で静岡に向かっていた。昼過ぎに三浦知良の父親である、納谷宣雄が実質オーナーを務める静岡FCの試合を観戦することになっていた。大雨の中、要田の弟・章が車で迎えに来てくれた。静岡FCで要田とプレーしていた章は、現役引退後も静岡に留まり、ホテルで働いていた。

 

 藤枝市グラウンドは、視界が遮られるほどの激しい雨だった。相手は中央防犯だった。足元はぬかるんでおり、サッカーの質を云々する試合ではなかった。後半からぼくの隣にやってきた納谷ととりとめのない話をしながら、ぼんやりとピッチを眺めていた。試合は静岡FCが勝利した。東海リーグでは勝てるんだけどな、その後が大変だと、納谷はぼやいた。

 

 仕事があるという章と別れて、夜、納谷が経営する寿司屋「七八」に向かった。寿司をつまみ、納谷と話をしながらビールを飲んだ。

 

 今日の試合に起用されただろうか、酔った頭の片隅で要田の顔が浮かんだ。そんなとき、店の扉が開き、章が顔を出した。満面の笑みだった。

 

(つづく)

 

田崎健太(たざき・けんた)

1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。

著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス30年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日-スポーツビジネス下克上-』 (学研新書)、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『辺境遊記』(英治出版)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社 ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『真説・長州力 1951-2018』(集英社)。『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)、『真説佐山サトル』(集英社インターナショナル)、『ドラガイ』(カンゼン)、『全身芸人』(太田出版)、『ドラヨン』(カンゼン)。最新刊は「スポーツアイデンティティ どのスポーツを選ぶかで人生は決まる」(太田出版)。

2019年より鳥取大学医学部附属病院広報誌「カニジル」編集長を務める。公式サイトは、http://www.liberdade.com


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