わたしにとってのスキージャンプと言えば、うっすらと記憶に残る札幌での“日の丸飛行隊”と、あとは何といっても、長野での「ふなきぃ~」である。昨年、その主役でもあった原田雅彦さんにお話しをうかがう機会があったのだが、リレハンメルから連なる物語と裏話は、戦慄と興奮と感動に満ちていた。

 

 だが、今回の北京で記憶の順位に大変動が起きた。こんなことが起きてしまえば、残念ながら長野の衝撃でさえちょっと薄らぐ。

 

 団体混合での理不尽で、不可解で、でも胸を締めつけられるようだった壮絶なドラマ。いまは、「あれがあったからいまでもいろんなところから呼んでいただける」と笑う原田さん同様、高梨さんにも笑える日が来ることを祈るしかない。彼女がそう思える日々への道を、我々メディアを含めたできるだけ多くの人間がつくっていくしかない。彼女一人で背負い込むには、今回起きたことは重すぎる。

 

 高梨さんに関しては、それ以前にも考えさせられる騒動が起きていた。個人ノーマルでメダルを逃した彼女に対し、「化粧するぐらいなら練習しろ」といった声が上がったというのだ。

 

 もちろん、メディアではそうした声を強く否定する議論が主だったが、個人的にはわかる気がした。「ま、そうだろうな」というのが正直なところだった。

 

 スポーツをイコール体育と考える人の多いこの国では。

 

 スポーツとは、本来娯楽の一種であるとわたしは思う。だから、雌雄を決したり、優劣を競い合う場を「ゲーム」ということもある。

 

 だが、明治期の日本人は、この欧米生まれの概念を「体育」と和訳してしまった。しかも、学校教育の一部に組み込み、富国強兵のために生かそうとした。

 

 わたしは、高梨さんが化粧しようがしまいがまるで気にしない人間だが、しかし、小学生や中学生、いや、高校生であっても、バッチリメークを決めて学校に乗り込んできたら、いささかギョッとするだろう。学校はそういうことをする場ではない、という思い込みがあるからだ。

 

 だから、わかる。高梨さんは叩く人たちに1ミリもシンパシーは感じないが、そう感じてしまう気持ちは理解できる。勝てなかった本人が一番悔しいはずなのに、国にとっての損失、痛手であるかのように感じてしまう人がいるのも、体育の目的が富国強兵、つまりは報国のためだったと仮定すれば納得もいく。

 

 ちなみに、中国ではフィギュアで結果を残せなかった米国生まれの選手に対する激しいバッシングが起きているという。韓国は韓国で、スピードスケートで起きたアンフェアな判定に激昂した人たちが、当事者、関係者にサイバー攻撃を行っているとも聞く。

 

 欧米の人たちからすれば理解不能にも思える反応だろうが、中国は、韓国は、日本人がひねり出した体育という言葉と概念をそのまま輸入してしまった国でもある。国民がメダル獲得を喜ぶのはまだしも、国家が勝者をもてはやすのは、軍神を祀り上げるのと何ら変わるところはないのだけれど。

 

 というわけで、今回の件であったり、中国政府やIOCのやり口など、いろいろと考えさせられることはありながらも、今日もわたしはテレビにかぶりつく。スポーツの魅力にはやっぱり抗えない。

 

<この原稿は22年2月10日付「スポーツニッポン」に掲載されています>


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