長く海外で生活してきた知人に聞いたことがある。

 「海外のサッカーでも、日本で問題になってるようなパワハラ騒動ってあるの?」

 

 間髪入れずに彼は言った。

 「なかったですね」

 

 「ミスをした選手も日本みたいに怒鳴られたりはしないってこと?」

 「そうですね」。そう言った彼は苦笑いして続けた。

 

 「ぼくが付き合ってきた指導者で、怒鳴り散らしたりする人はいませんでした。ただ、すぐに切る。それも、自分は悪者になりたくないから、フロントに切らせる」

 

 わからないでもない。サッカーに限らず、日本のスポーツ界では依然として指導者に教育的立場を求めがちな傾向がある。能力や実力が落ちる選手がいても、露骨に切り捨てることに抵抗を覚える人は少なくない。

 

 だが、スポーツが娯楽であれば、切り捨ては悪ではないし、切り捨てられることも恥ではない。そのチーム、あるいはその競技に合わないのであれば、他のチーム、他の競技に移ればいいだけの話だからだ。最近、わたしの暇つぶしは「にゃんこ大戦争」から「AFKアリーナ」に重心が移りつつあるが、誰からも非難はされないし恥の意識もない。

 

 というわけで、スポーツを娯楽と考えるか否かで、物事の見え方は変わるとわたしは思う。

 

 「ゾッとした」

 

 そうのたまったのは、IOCの会長だった。スポーツ=娯楽文化圏の人間からすれば、確かに、ボロボロになって競技を終えた選手にコーチがかけた言葉は、理解不能の領域だろう。

 

 ただ、あえてコーチの立場、スポーツを娯楽ではなく、属する集団の意識高揚の手段と考える立場に立つと、見え方は変わってくる。わたしはトゥトベリゼ氏で、ワリエワとは教師と教え子、あるいは親と子供のような関係で、かつ、ドーピング疑惑は謂(いわ)れのない濡れ衣と信じていたとしたら。

 

“敵”の謀略に屈し、金メダルばかりか、途中で銀や銅まで諦めてしまった教え子に、わたしも聞いたと思うのだ。

 

 「なぜ諦めてしまったの?」

 

 大人びていても、15歳は大人ではない。指導者と選手の関係は、大人同士のそれと同じというわけにはいくまい。日本でも、結果を出せなかった教え子に厳しい言葉を投げかける若年層の指導者はいまだ珍しくない。

 

 もちろん、中には指導者が腹立ち紛れに言い放った、単なる暴言でしかないものもあるだろう。たとえ教え子のためであっても、わたしはどうしても賛同できないし、ドーピングが事実であったならば、トゥトベリゼ氏の言葉も、単なる保身のためかということになる。

 

 ただ、わからないではない。理解しようと思えば、理解できないこともない。

 

 わかろうとしてもわからないし、理解したくもないのは、むしろ、一個人を直接的に非難するという異例の行動に出た御仁である。

 

 大会前に予想した通り、中国政府は要人の性暴力を見事うやむやにすることに成功した。世界を巻き込んだ大騒動も、国ぐるみで隠蔽すれば逃げきれるのだという経験を中国政府は積んだ。お墨付きを与えたのは、自らの銅像を作ってもらった会長殿だった。

 

 というわけで、今回の五輪で、IOC、少なくともその会長にとって、コーチの厳しい言葉は、性暴力よりも非難に値するものらしい、ということが証明された。全世界のスポーツ指導者の皆さん、お気をつけあれ。

 

<この原稿は22年2月24日付「スポーツニッポン」に掲載されています>


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