2005年7月9日夜、要田勇一の弟・章が静岡の寿司屋「七八」までぼくを迎えに来てくれた。そこで要田が決勝点をあげたことを知った。ぼくたちは店のテレビをつけて、スポーツニュースを見ることにした。

 

 ジェフユナイテッド千葉がアルビレックス新潟に2対1で勝利したことを伝えた後、映像はイビチャ・オシムの記者会見に切り替わった。記者が「出場機会のなかった要田が決勝ゴールをあげました。要田についてどのようにお考えですか」と質問した。オシムは仏頂面を崩して「要田は要田でしょう」と笑った。そしてこう続けた。

 

「彼は昨年加入して、何度か活躍した。勇気と身体を張るプレーが持ち味だが、欠点も少なくない。ただ、マリオ(・ハース)、巻(誠一郎)がレギュラーとして出場し、そこに林(丈統)も加わってくる。そんな出番がない状況にもかかわらず、要田は普段の練習で一切、手を抜くことがない。だからこそ今日のように結果を出した。試合に出ていない他の選手の見本になったと思う」

 

 このシーズン、要田は出場機会を得られなかった。それでもオシムは要田のことを見てくれていたのだ、とぼくは嬉しくて涙が出そうになった。

 

 要田にとっても同じだった。オシムは選手を直接褒めることはない。選手たちは記者会見や新聞記事でオシムがどのように評価しているのか知るのだ。

 

 要田本人は囲み取材でこう語っている。

「試合に出るチャンスがあればやってやろうと思っていた。出場するときは、絶対に点を取ろうと決めていた。天候が悪いときはぼくの調子はなぜかいいので、試合前からなんとなくゴールできるんじゃないかという予感もあった。ただ、ゴールの前にチャンスがあって、決めきれなかったのは反省点。今後もフォワード陣は競争が激しいので、試合に出られないことがあっても練習から頑張ってチャンスを物にしたい」

 

 要田の代理人である、辰己直祐氏はオシムにこう言われたという。

「控えの選手には2種類いる。ベンチ入りのメンバーに入っただけで満足している選手。もう一つは、なんで俺がベンチにいるんだと思っている選手。チームにとって大事なのは後者の選手だ。ベンチに入って満足している選手は使えない。なんで俺が先発じゃないんだという選手をピッチに入れると結果を出す」

 

 そして、オシムはこう付け加えた。要田は次第に後者の顔になってきた、と。

 

 来季の契約、背番号は11

 

 2005年シーズン、ジェフは前半戦でもたついたものの、最終的に勝ち点59を積み重ねて4位に入った。要田はリーグ戦五試合出場で得点はこの1得点のみ。この数字だけならば十分な成績を残したとはいえない。ただ、首位のガンバ大阪は勝ち点60、2位の浦和レッズから5位のセレッソ大阪までが59という混戦だった。その意味でアルビレックス戦での要田の決勝点は非常に重みがあったといえる。

 

 その証左に要田の元にJ2のクラブがジェフよりも高い年俸を提示してきた。しかし、要田の心が揺らぐことはなかった。オシムの元でサッカーをすることが何より楽しかったのだ。

 

 年が明けた1月8日、要田はパラグアイ行きの前から交際していた女性と神戸市のハーバーランドで結婚式を挙げた。かつて所属先がなかった要田を励まし、支えてきた女性である。この日はたまたまジェフのスタッフの結婚式と重なっていた。ほとんどの選手は関東で行われたそちらの式に出席。その中、寮で最も親しくしていた水本裕貴だけが神戸まで駆けつけた。水本はこの年に日本代表に選ばれることになる。

 

 ぼくもこの日に合わせて神戸に入り、二次会で挨拶を任された。ヴィッセル神戸を放り出された後、要田を受け入れた要田の弟・章が所属していた立教大学サッカー部の人間たちも顔をそろえた。要田らしい温かい会だった。宴は朝まで続いた。

 

 2006年シーズン、要田はジェフと契約を交わした。

 

 その際、辰己氏は要田に一つのプレゼントをした。背番号「11」である。11番は2004年シーズンに村井慎二がつけていたが、ジュビロ磐田に移籍。空き番号となっていた。辰己氏は要田が三浦知良に憧れており、11番をつけたいと考えていたことを知っていた。そこで、ゼネラルマネージャーの祖母井秀隆に空きを確認した上で、11番を要田の背番号としたのだ。当然、要田は飛び上がらんばかりに喜んだ。

 

 章は兄から来季11番をつけると知らされたとき、胸騒ぎがした。日本のトップリーグであるJ1で自分の好きな背番号をつけられる選手は限られている。兄がその一人となったことが誇らしかった。

 

 しかし、である。要田は雑草のように、戦力外からスペインやパラグアイに行き、這い上がってきた男だ。そして昨年はたった5試合しか出場していない。そんな選手がレギュラー番号、それもみなが欲しがる11番をつけてもいいのか。しかし、子どものように喜んでいる兄を目の前にすると何も言えなかった。マリオ・ハース、巻誠一郎に続く“3番手”のフォワードであった林丈統が京都パープルサンガに移籍した。4番手だった要田の順位は繰り上がり、出場機会は増えるはずだった。

 

 11番にふさわしい活躍をすればいいのだと章は思い込むことにした。

 

(つづく)

 

田崎健太(たざき・けんた)

1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。

著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス30年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日-スポーツビジネス下克上-』 (学研新書)、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『辺境遊記』(英治出版)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社 ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『真説・長州力 1951-2018』(集英社)。『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)、『真説佐山サトル』(集英社インターナショナル)、『ドラガイ』(カンゼン)、『全身芸人』(太田出版)、『ドラヨン』(カンゼン)。最新刊は「スポーツアイデンティティ どのスポーツを選ぶかで人生は決まる」(太田出版)。

2019年より鳥取大学医学部附属病院広報誌「カニジル」編集長を務める。公式サイトは、http://www.liberdade.com


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