第243回 オシムに愛された男 ~要田勇一Vol.29~
2006年シーズン、ジェフユナイテッド市原・千葉の初戦の相手は大宮アルディージャだった。
両チーム合わせてイエローカードが6枚という荒れた試合になった。ジェフの心臓とも言える佐藤勇人が2枚のカードで退場処分となっている。試合は2対4で敗戦。11番をつけた要田はベンチ入りしたが、出番はなかった。続くヴァンフォーレ甲府戦の後半42分、要田は中盤の羽生直剛に変わってピッチに入った。要田は得点を挙げることができず、試合は引き分けに終わった。その後もベンチ入り、時折途中出場という試合が続いた。
06年はワールドカップイヤーでもあった。4年前のワールドカップから大きく変わったのは、チームに「海外組」と呼ばれる国外のクラブチームに所属する選手が増えたことだ。また中盤には中田英寿、中村俊輔、小野伸二、稲本潤一と華のある選手が揃っていた。代表監督であるジーコの現役時代、82年のブラジル代表の「クワトロ・オーメン・ジ・オウロ」(黄金の中盤)の日本版と喩えられることもあった。
主力選手はほぼ固まっていたが、まだ欠けていたピースがあった。その1つがフォワードである。ジーコがその才能を高く買っていた、左利きのフォワード、久保竜彦は腰痛などの怪我を抱えていた。久保の復帰に賭けるのか、あるいは他の選手を招集するのか。日本代表のスタッフがJリーグのどの試合に姿を現したかにも注目が集まった。
5月上旬の第12節の後、Jリーグは中断期間に入った。そして5月15日にワールドカップ日本代表が発表された。ジーコの口から「ムァキ」という単語が発せられたとき、どよめきが起きた。久保が選外となり、ジェフの長身フォワード巻誠一郎が滑り込みで入ったのだ。
巻はイビチャ・オシムによって発掘され、磨きあげられた選手である。巻の選出は、ジェフの選手たちの士気を高めることになった。
要田はこう振り返る。
「身近な選手がワールドカップに出ることになった、俺たちもチャンスがないことはないな、という雰囲気になっていました」
6月12日、日本代表はオーストラリア代表と対戦した。前半26分、中村俊輔のクロスボールがそのままゴールに入り、先制点を挙げた。しかし、8分間で3点を失い、1対3で敗れた。続くクロアチア代表戦は、フォワードの柳沢敦が至近距離からのシュートを外し、0対0の引き分け。ブラジル代表との第3試合は1対4の惨敗。日本代表は1勝もできず、ドイツの地を後にすることになった。
6月24日、ドイツから帰国した日本サッカー協会会長の川淵三郎が“後任監督”について口を滑らした。
<次期日本代表監督が、前代未聞の失言で判明した。日本サッカー協会の川淵三郎キャプテン(会長、69)が24日、成田市内で行われたW杯総括会見で、後任監督について「オシムが…」と口を滑らせた。この一言でJ1千葉のイビチャ・オシム監督(65)と交渉中であることが公になった。契約内定前の思わぬ失言に、川淵氏は会見を一時中断して関係者に連絡。約10分後にオシム氏に一本化して交渉していることを明言した>(『日刊スポーツ』2006年6月25日付)
クラブに残った選手の心境は……
要田をはじめとしたジェフの選手にとっては寝耳に水だった。
「えっ、まじ? という感じでした」
オシムは自宅のあるオーストリアに帰国していた。26日、ジェフは<この件に関し、当クラブとしては、オシム監督には契約満了まで、ジェフユナイテッド市原・千葉の監督として指揮を執っていただきたいと考えていますが、監督の再来日を待って、監督本人の意思を確認した上で、話し合いを進めていきたいと考えております>と発表した。
クラブハウスには新聞記者が集まっていた。オシムの日本代表監督就任についての質問は一切答えないようにという箝口令が出ていた。とはいえ、要田たちも新聞に出ている以上の情報は何も知らないというのが実情だった。
ジェフの選手たちは複雑な心境だったろう。
06年シーズン前、好成績を残していたジェフの選手たちは他のJクラブから目をつけられていた。ジェフは資金力のないクラブである。他のクラブは金銭的に好待遇を提示していた。それでも多くの選手はこのクラブに残るという判断をした。オシムの元でサッカーをしたいと考えたからだ。そのオシムがいなくなれば、このクラブに残る意味はなくなる。
また、オシムが日本代表監督になれば、彼のサッカー観、彼の流儀を知っているジェフの選手が重用されることになるだろう。これまで代表に縁がなかった選手も呼ばれるかもしれない。
もしかしてスーパーサブとしてならば、自分も呼ばれるかもしれない、要田もそんな淡い希望を頭に浮かべたこともあった。
日本に戻ったオシムは日本代表監督就任を受け入れた。ジェフの後任監督は、オシムの息子、アマルが引き継ぐことになった。アマルはサテライトチームを指導しており、父親のやり方を踏襲するだろう。要田もアマルに悪い印象はなかった。ただし、それは監督就任するまで、の話だ。
(つづく)
■田崎健太(たざき・けんた)
1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。
著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス30年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日-スポーツビジネス下克上-』 (学研新書)、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『辺境遊記』(英治出版)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社 ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『真説・長州力 1951-2018』(集英社)。『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)、『真説佐山サトル』(集英社インターナショナル)、『ドラガイ』(カンゼン)、『全身芸人』(太田出版)、『ドラヨン』(カンゼン)。最新刊は「スポーツアイデンティティ どのスポーツを選ぶかで人生は決まる」(太田出版)。
2019年より鳥取大学医学部附属病院広報誌「カニジル」編集長を務める。公式サイトは、http://www.liberdade.com