2週間前のこの欄で「プーチンを止めるのは武力でも経済制裁でもない、ロシア国民の声だ」と書いた。届くはずのないのだけれど、つまりはロシア国民を煽った。自らは安全な場所に位置しながら、立ち上がれ、立ち向かえと煽った。

 

 それが、どれほど危険なことなのかを、想像しきれていなかった。

 

 侵略された側が声を上げるのはわかる。上げなければ国がなくなってしまうからだ。だが、侵略した側の国民はどうか。声を上げなくても困ることはあまりないし、むしろ、声を上げて非国民扱いされるリスクの方が大きい。

 

 それでも、マリーナ・オフシャンニコワさんは声を上げた。ただし、精いっぱいの知恵を駆使して。

 

「戦争反対。プロパガンダを信じないで。あなたはだまされている」

 

 ニュース番組に乱入し、彼女が掲げたボードには、どこにもウクライナの国名は入っていなかった。だましているのが誰かも明確にしなかった。いわば、誰にとっても真理。命懸けではあるけれど、これならばギリギリ言い逃れもできる。おそらく、彼女はそう考えたのだろう。

 

 自分の後ろでありえないことが起きているのに振り返ることなく淡々と話し続けたアナウンサー、映し続けたカメラマン、動画を切り替えなかったスイッチャーらも、おそらくは声なき支援者だった。あれは、断じて一人の人間が突如として起こしたハプニングではなかった。そして、現場に一人でも熱狂的なプーチン信者がいたら起こり得なかったハプニングだった。

 

 幸い、放送直後に警察に拘束されたオフシャンニコワさんは、翌日、3万ルーブル(約3万3000円)の罰金を科せられただけで釈放された。しかも、問題とされたのは番組への乱入ではなく、彼女があらかじめ収録していた、クレムリンを名指しで批判するビデオメッセージだった。

 

 よりインパクトがあったのがどちらかは明らかだが、オフシャンニコワさんたちの“倫理武装”が優ったということだろう。ただ、彼女の弁護士によれば、今回のウクライナ侵略後に成立した新法が適用されれば、最高で15年の禁錮刑が科せられる可能性もあるという。

 

 すでにフランスのマクロン大統領は、彼女の身を案じ、「外交的保護」を申し出ている。世界からの注目度も極めて高いため、ロシアもうかつなことはできないという見方がある半面、彼女を妨害しなかった……というかサポートしたようにすら見える周囲のスタッフが厳罰を受けるのでは、との声もある。

 

 メッセージを掲げた当人より、それを黙認した人間が厳しい処分を受けるという前例ができれば、今後、同様のハプニングが起きる可能性は激減する。情報を統制したい側からすれば、より望ましい状況が生まれるのはいうまでもない。

 

 立ち上がれ、立ち向かえと唆した人間の一人としては、できる限り彼ら、彼女らに心を寄せていきたい。オフシャンニコワさんが微罪で釈放されたことに安堵していてはいけない。

 

 ワルシャワ市民よ立ち上がれ、ナチスに立ち向かえと煽るだけ煽っておいて、いざ立ち上がったら黙殺したのは、スターリン時代のソ連だった。同じ轍を、21世紀の人類が踏むわけにはいかない。できることなら、踏むわけがない、と断言もしたいのだが。

 

<この原稿は22年3月17日付「スポーツニッポン」に掲載されています>


◎バックナンバーはこちらから