戦争止めるならスポーツを関与させるべき

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 日本のパラアスリートにとって、4年に一度のパラリンピックは最大にして唯一となるアピールの舞台である。どれだけ認知度を高めることができたかが、スポンサー契約の獲得や延長が鍵だった。

 

 自分に関する限り、今回のパラリンピックに対する関心度、注目度は落ちついている。パラに割くための時間や思案の何割かが、ウクライナで起きていることのために使われてしまっている。

 

 それがわたしだけの話であればいいのだが。北京大会以降、パラリンピアンたちの活動に支障が出たりしなければいいのだが。

 

 五輪閉幕直後にロシアが軍事行動に出たのは、五輪は大切だけれどもパラはどうでもいい、という発想によるものでなければいいのだが。五輪期間中だけ我慢してくれれば、あとはご自由に、などと中国政府が考えていなければいいのだが。

 

 これ以上の犠牲者を出さないために、ウクライナは降伏をも視野にいれるべきだ、という声がある。それもありだよなと思いつつ、でも、自分がウクライナ人だったら受け入れられないだろうなとも思う。

 

 隣国から攻め込まれ、局地的な奮闘は見せたものの、力及ばず1カ月ほどで屈した国があった。戦死者は6万6000人。だが、主権こそ奪われたものの、表面上は戦争状態から脱したはずのその国では、以後の5年間で600万人もの国民が命を奪われたとされる。

 

 ポーランドは、アウシュビッツは、ウクライナの隣国である。ナチに屈伏した隣国で何が起こったかを、ウクライナの人々は知っている。より多くの命を守るために降伏するという考えは、たぶん、日本人ほどにはのみ込めない気がする。

 

 もちろん、ロシアはナチスではない。ただ、言論の自由を保障する国でもないことは、ノーベル平和賞によって証明されてしまっている。意見を発することが、生命の危機に発展することもある国だという認識は広まってしまっている。

 

 ウクライナが降伏すべきと考えることは、だから、香港の人々は言論の自由を放棄すべきと考えるに等しい気がする。我慢していれば命だけは奪われない。それでいじゃないか、と。

 

 わたしには、言えない。

 ジレンマはある。

 

 プーチン支持とおぼしきツイートを繰り返すロシアのアスリートに、世界中から非難の声が高まっている。気持ちはわかる。わたしだって「おいおい、プルシェンコさんよ」とは思う。思うのだが、一個人のつぶやきまで圧殺しようとするのは、独裁者たちがやっていることと何が違うのだろう。

 

 では、わたしたちはプーチンを称賛する声も、言論の自由として受け入れなければならないのだろうか。それとも、戦後のドイツのように、ナチスに関するものはすべてタブーであるとの前提に立つべきなのだろうか。ロシアのアスリートが使い始めた「Zマーク」は、カギ十字やSSと同列に論じるべきなのだろうか。

 

 答えが、みつからない。

 

 パラリンピックからロシアとベラルーシの選手が排除されたことについて「スポーツと政治は別だ」という意見がある。基本的には、賛成。ただ、戦争は政治ではない、とわたしは思う。スポーツは政治を利用すべきでもされるべきでもないが、戦争を止めるためなら、命を救うためなら、むしろ積極的に関与すべきだ――それが、現時点におけるわたしなりの結論である。

 

<この原稿は22年3月9日付「スポーツニッポン」に掲載されています>

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