またひとり“伝説の生き証人”が世を去った。黄金期の阪急などで活躍した阪本敏三さん。78歳だった。

 

 立命館大学から河合楽器を経て阪本さんが入団したのが1967年。この年、阪急は闘将・西本幸雄監督の下、初のリーグ優勝を果たす。新人ながら阪本さんは2番ショートで102試合に出場した。69年には自身初の盗塁王に輝き、3連覇に貢献した。

 

 しかし、日本シリーズでは3年続けて巨人の軍門に下り、日本一への夢は、4回目のリーグ優勝を果たした71年に持ち越された。巨人はV7がかかっていた。

 

 1勝1敗で迎えた第3戦、東京・後楽園球場。阪急1対0。エース山田久志は、完封勝利まで、あとひとりと迫っていた。

 

 9回裏2死一、三塁。1-1からのヒザ元へのストレートを4番・王貞治は見逃さなかった。王のバットが快音を発した瞬間、山田の記憶はプツリと途絶えた。後に山田は語った。「ほら、よく“意識が飛ぶ”っていうでしょう。あれですよ」

 

 打球はライトスタンドへ一直線。絵に描いたような逆転サヨナラ3ラン。はねるようにダイヤモンドを一周する王、両ヒザを折ってうずくまる山田。日本シリーズ史に残る名場面である。

 

 だが名勝負には必ず伏線がある。王の劇的な3ランを呼び込んだのは2死一塁の場面で、3番・長嶋茂雄が放った1本のゴロだった。1ストライクからのカーブを、長嶋は泳ぎながら左の手首を返した。通常ならショートの定位置だ。山田は「ショートが捕って終わり」と思った。ところが、「阪本さんがいない……」

 

 山田以上に驚いたのは勝利を確信してベンチを飛び出しかけた西本だ。<なぜ阪本が逆へ動いたか、今もってわからない>(自著『私の履歴書――プロ野球伝説の名将』日経ビジネス文庫)

 

 それについて阪本さんは「長嶋さんの構えからして引っ張ってくると思った。それで三塁側に寄った」。これが裏目に出た。逆を突かれた阪本さんをあざ笑うかのように打球はセンター前へ。ここが勝負の分かれ目だった。

 

 しかし、阪本さんを責めるのは酷だろう。なぜなら長嶋は瞬時に打球方向を変える名人で、しかも打球には強いスピンがかかっている。捕れそうで捕れないのがミスターの打球――。当時を知る何人かのセの内野手からそんな話を聞いた。

 

 日本シリーズ終了後、阪本さんは複数トレードで東映に移籍した。守備に難あり、と判断された阪本さんの無念は察して余りある。移籍1年目の球宴第2戦で阪本さんは巨人のエース堀内恒夫から2ランを放ちMVPに選ばれた。それは阪急の挑戦をことごとくはね返した全セ率いる川上哲治と自らを放出した全パの指揮官・西本に対する、せめてもの意地ではなかったか。そんな話もしてみたかった。合掌。

 

<この原稿は22年4月27日付『スポーツニッポン』に掲載されたものです>


◎バックナンバーはこちらから