2010年10月、アルベルト・ザッケローニを代表監督に迎えた日本代表は、南米の雄・アルゼンチンを撃破するという最高のスタートを切った。しかし、新監督が決まるまでの道のりは平坦なものではなかった。複数の候補者の名前が連日報道され、ザックジャパン誕生までの経緯が代表選手や多くのサポーターをやきもきさせたのは記憶に新しい。
 ここではJリーグ創設に尽力し、代表監督に初の外国人を招聘した川淵三郎日本サッカー協会名誉会長と当HP編集長・二宮清純との対談を抜粋し、代表監督選考や外国人監督招聘の経緯など、日本代表近現代史の裏側に迫った。

二宮: かつてW杯が“高嶺の花”だった時代を知る者にとって、4大会連続出場というのは夢のような話です。かくも日本代表が強くなった一番の理由はプロ化に成功したことです。選手がアマチュアの身分のままでは永遠にW杯出場の願いはかなわなかったでしょう。底辺が拡大し、選手層が厚くなったというメリットもあります。これに対する川淵さんの貢献度の大きさは言うまでもありません。
 2番目の理由は外国人監督を積極的に登用したことです。これにも川淵さんは中心的存在としてずっと関わってこられた。外国人監督の第1号はオランダ人のハンス・オフトです。彼に関する評価は後でお伺いするとして、なぜ代表監督を外国人に切り換えたのでしょう。
川淵: 横山謙三が代表監督をしている時のことです。ラモス瑠偉とカズが代表入りした。確か大宮でポーランドと試合をした後かな。僕と長沼健さんと彼らとで食事をした。
 その時にラモスとカズがユニホームに日の丸を付けてくれとかもっと待遇をよくしてくれとか、いろいろな要求を突きつけてきた。あるいはアマチュアの選手にも手当てを出してくれとか。当時は長沼さんが協会の副会長で僕が総務主事ですよ。それまではアマチュアに報酬なんか出したことがなかったので「おカネをもらわないのがアマチュアなんだ。おカネをもらってないからといってプレーで手抜きをしているわけではない。これは精神的な問題なんだ」なんて説明したけど、心の中では“こいつら、いいこと言うなァ……”と思っていましたよ。選手たちを代表しての意見だったからね。

 歴史を変えた1本のコーラビン

二宮: 当時の代表にはカズやラモスのようにプロ契約している選手とアマチュアの身分の社員選手が混在していました。
川淵: そうです。カズやラモスのようなプロが代表に入った段階で、もう代表監督もアマチュアというわけにはいかなくなった。プロ契約している選手が「僕たちは生活がかかっている」と言えば監督は何も言い返せないでしょう。「そういう考え方の選手は代表に要らない」なんて果たしてカズやラモスに言えるだろうか。それはもう無理だと判断したんです。
 しかし、いきなり日本人のプロ監督というのも無理がある。カズやラモスと互角に渡り合うには、やはり外国人監督の方がいいだろう。そこまでは決めたんだけど、じゃあ誰がいいかとなると具体的な名前が出てこない。

二宮: 外国人監督第1号としてオフトにう目を付けた理由は?
川淵: 1982年の天皇杯でヤマハを優勝させたのがオフトだったという印象が強かった。その後、マツダに移ってからもいいサッカーをやっていた。
 そこで当時、ヤマハのゼネラル・マネジャーをしていた小長谷喜久男とマツダの監督をしていた今西和男に「オフトっていうのはどういう男だ?」と探りを入れたんです。すると指導者としては立派だし、給料もそう高くはないと。それならやってもらおうということになって、直接、頼みにいった。
 オフトとはオランダで1時間半くらい話したかな。日本のサッカーのこともよく知っているし、指導者としての能力も高い。それに彼は当時、ユトレヒトのゼネラル・マネジャーをしていたから、チームづくりやチームマネジメントについてもよく知っている。これはもう、やってもらうしかないと……。

二宮: 話はそのままトントン拍子で進んだんですか?
川淵: いや、そうじゃなかった。長沼さんと岡野俊一郎さん(当時副会長)に「外国人のヘッドコーチを置きたい」と言ったら、「それは難しい」と。まずは通訳が問題だと。岡野さんが言うには「僕がデットマール・クラマーの通訳をしていた時、言っていいことと悪いことは自分が判断して伝えていた」と。つまり能力がある通訳がいなきゃダメなんだと言うんです。

二宮: 監督よりも通訳の能力が問題視されるというのも妙な話ですね。
川淵: まぁ、そうなんだけど、とりあえず僕はいったん引き下がった。ちょっと間を置こうと思ってね。その間にオフトから電話がかかってきた。「あの話はどうなったんだ。ヨソからもオファーが来ているぞ」と。本当はそんな話来るわけないんだけどね。
 それで92年の年が明けてすぐくらいかな。長沼さんと岡野さんに「どうしてもオフトが欲しい。オフトをとってくれなきゃ、日本代表は強くなりません」と再度、訴えた。実はこれでもダメなら、やめてやろうともう腹をくくっていたんだ(笑)。

二宮: その頃、川淵さんは確か強化委員長ですよね。代表監督を選定する権限は誰が持っていたんですか?
川淵: 当時、そこははっきりしていなかった(笑)。良くも悪くも、いい加減な時代ですよ。代表監督を選ぶにしても、僕はJリーグの創設で忙しくて、本当は勘弁してもらいたかった。
 すると長沼さんと岡野さんが二人して「オマエの言うことは何でも聞くから引き受けてくれ」と頼んできた。だから、もしオフト案が最終的に拒否されたら「約束、違うじゃないか」と言って代表がらみの仕事は降りようと思っていた。

二宮: そのオフトが日本のサッカーを近代化させたのは紛れもない事実です。92年夏のダイナスティカップに優勝し、同年秋のアジアカップも制する。案の定、ラモスとの対立もありましたが、プロの監督としてうまく乗り切った。
 アメリカW杯最終予選・イラク戦。ラストワンプレーで同点に追いつかれ、悲願のW杯初出場は逃してしまうわけですが、あの“ドーハの悲劇”は日本人に強烈な印象を残しました。
川淵: 僕は今でも見たくない試合が一生の中で2つある。ひとつはこの試合、もうひとつがドイツW杯で逆転負けをくらったオーストラリア戦。とりわけ“ドーハの悲劇”は、W杯まで、もうあとわずかだったからね。試合後、1カ月くらいは普通の精神状態じゃなかったですよ。

二宮: 皮肉と言えば皮肉ですが、この悲劇かあったからこそ、4年後の“ジョホールバルの歓喜”がよりクローズアップされたとも言えます。
川淵: それは間違いなくそう思うね。ちょうど、この“ドーハの悲劇”が起きた93年10月は、Jリーグがスタートした年でもあった。その頃、僕らはよく言われたの。「野球は9回2死からでも満塁サヨナラホームランがあるから目が離せない。サッカーには、そういう醍醐味がないからつまらない」って。
 逆の意味でサッカーの醍醐味を証明してしまった(笑)。これは今になって思うんだけど、あのまま勝ってすんなりアメリカに行くより、出られなかったから余計にあの試合の価値が出たんじゃないかって。少なくとも日本のサッカーの歴史を考えれば、あの悲劇には価値があった。その後の代表チームの成長に確実につながっていったからね。

二宮: それにしても、あと10数秒ですからね。以前ラモスに聞いたら、コーナーキックの直前、イタリア人レフェリーに「アカボウ?」と聞いたそうです。つまり「終わりか?」と。するとレフェリーは「スィ(イエス)」と答えた。だから彼はイラクの選手がポンとコーナーキックを蹴った時点で終わりだと思ったそうです。「なぜ、あれがつながったのかわからない」と頭を抱えていました。
川淵: いや、これは後日談なんだけどね。後で僕もレフェリーに聞いたんだ。「前半は時計の針がゼロになった途端にピッと笛を吹いたのに、後半は吹かなかった。あれはおかしいんじゃないか?」って。
 すると、後半の試合中、イラクのファンがピッチかその付近にコカ・コーラのビンを投げ入れたらしい。こんなことがあるとレフェリーは試合妨害の証拠品として副審のところにそのビンを持っていかなければならない。その時間がロスタイムに加えられたと。

二宮: コーラのビン1本で歴史が変わっちゃったわけですね。
川淵: そう、たったビン1本でね。

 “加茂更迭”までの真相

二宮: 日本サッカーにとって“ドーハの悲劇”に次ぐ試練といえば、“アルマトゥイの評定”になるのでしょうか。
 フランスW杯を目指すアジア最終予選でのカザフスタン戦(アウェー)、日本は1対0とリードしていながらロスタイムで同点ゴールを許し、フランスが遠のき始めた。
 その夜、協会は加茂周代表監督を解任し、岡田コーチを監督に昇格させる決断を下したわけですが、これには相当な葛藤がおありだったのでは……。
川淵: 実はね、これには伏線があったんです。あれは96年のアジアカップのクウェート戦、日本は0対2と完敗するんです。僕はUAEに行ってたんですけど、「日本代表には何の戦術もない」と外国人記者からボロカスに言われた。
 それで心配になったものだから、新聞や専門誌の記者を3人ほど呼んで「加茂はどうなってるのか?」と聞いた。すると全員が加茂を批判したんです。加茂シンパといわれる記者までもがね。
「じゃあ誰がいい?」と聞くと、揃って「ジーコがいい」と。これはマズイなと思いましたよ。
 コーチの岡田も協会に呼び、説教しました「オマエ、もっとさ、加茂のいうことを選手に伝えろよ。なんで、それをやらないんだ?」と。すると、岡田が珍しく強い口調で「それは僕に言うべき話ではない。加茂さんに言うべき話でしょう」と。
 聞けば岡田は加茂から「細かい指示は出すな。岡ちゃんはチームのムードとかそういうものを大切にしてくれ」と言われていたと言うんです。だから、岡田が僕に食ってかかるのも無理はなかった。

二宮: でも岡田さんをコーチにくれと言ってきたのは加茂さんでしょう?
川淵: そうじゃない。最初、加茂は加藤久をコーチにくれと言ってきた。だけど、加藤は僕の後釜の強化委員長にする予定だったので、それはダメだと断った。「だったら岡田をくれ」と。これが真相ですよ。

二宮: 3戦目、ホームの韓国戦で1対2と逆転負けを喫してしまった。このあたりから暗雲が立ち込め始めました。川淵さんはこの頃、サッカー協会副会長とJリーグチェアマンを兼ねていましたね。
川淵: だから試合後、(もうひとりの副会長の)岡野さんに電話したんだ。この後、アウェーでカザフスタン、ウズベキスタンとの試合がある。「最悪の場合、監督をどうするかという問題も出てきますよ」と。

二宮: あの時は強化委員長が大仁邦彌さんで副委員長が今西和男さんでした。
川淵: この2人がカザフスタン戦の前、「話があります」と言って僕を訊ねてきた。「韓国戦の選手交代を見てもわかるように、もう監督を代えるより他に方法はありませんよ」と。
 僕は「試合前に、そんな話は聞きたくないから試合後にしてくれ」と言った。すると1対1で追いつかれちゃった。部屋に戻ると、また2人が訪ねてきましたよ。「ここで監督を代えないと、このチームは本当におかしくなります」と。
 僕は強化担当の理事も兼ねていたため、「じゃあ長沼さんに聞いてもらおう」となった。その場で監督を代えることははっきり言いました。

二宮: 長沼さんの反応はどうでしたか? 加茂さんの後見役でもあったから複雑な心境だったのでは……。
川淵: 長沼さんは「監督を代えるったって、すぐにビザが取れるわけじゃないだろう」と。新しい人を連れてくると思ったみたいですね。「いや、そうじゃありません。岡田を昇格させます。彼はチームのことも対戦相手のこともよく知っている。もう岡田以外にはいません」と説明しました。でも僕に言わせれば、韓国戦とカザフスタン戦だけで判断して解任したわけじゃない。アジアカップの時から、ずっと悪い流れできていたから、“これは、もうしょうがないな”という感じですよ。

二宮: 岡田さんも心中、穏やかじゃなかったでしょうね。ボスのクビが切られ、その後釜に座るわけですから……。
川淵: そりゃ、そうだよね。本人も「僕は加茂さんから選ばれてコーチになったんだから」と最初は固辞する姿勢を見せていましたよ。「ちょっと部屋に帰って考えさせてくれ」とも言った。
 でも部屋に帰って冷静に考えたら、受けてくれない可能性の方が高いでしょう。それで「ダメだ。ここで返事しろ」と。最後は「加茂さんの了解だけ取り付けてください」と言ったんじゃないかな。

二宮: このあたりの事情を当事者の加茂さんは、ほとんど語っていませんね。
川淵: だから僕は加茂という男は偉いと思うんだ。グチひとつこぼさず、プロの監督はそういうものだと割り切っている。これは真似の出来ないことですよ。

二宮: そうした紆余曲折があっての“ジョホールバルの歓喜”。これは忘れられないでしょう。
川淵: 先に見たくない試合を二つあげたけど、何度でも見たい試合がこれだね。Jリーグの開幕戦も印象に残っているけど、1番となると、やはりこの試合だろうね。

<この原稿は『g2』2010年6月号に掲載された原稿を抜粋したものです>

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