選手や監督に取材する場合、最も気になるのは現在彼らがどんな状況にあるかということだ。選手ならば好調で得点を決めている時が望ましい。監督ならばチームの成績が上位にある時の方が口が滑らかになる。

(写真:日本代表でも活躍した呂比須ワグナー 撮影:西山幸之)
 そうした意味では、2010年3月末に元日本代表の呂比須ワグナーに取材した時は絶妙なタイミングだった。呂比須が監督として率いているサンパウロ州リーグ1部のパウリスタFCが、前日、コリンチャンスを相手に1対0と勝利していたのだ。
 この時のコリンチャンスには、元ブラジル代表のロナウド、ロベルト・カルロスが所属していた。パウリスタのようなクラブがブラジルのビッグクラブ、コリンチャンスに勝つことは滅多にないことだった。

 パウリスタは、サンパウロから約60キロ北にある内陸部のジュンジャイを本拠地としている。ブラジルでは今、治安の悪いサンパウロ中心を嫌って、郊外に住宅地が拡がり続けている。ジュンジャイはそうした衛星都市の一つで、近年は高層マンションが建ち並び、人口約35万人にまで膨らんでいる。
 パウリスタは1909年に設立された歴史あるクラブだ。残念ながら、その歴史にはこれといった輝かしいものは見当たらない。目立ったタイトルは、呂比須がアシスタントコーチを務めていた05年のコパ・ド・ブラジルでの優勝だけである。
 ジュンジャイの街に入ると、すぐにパウリスタが使用しているジャイメ・シントラ・スタジアムが目に入った。50年以上前に建てれた古いコンクリート造りのスタジアムで、壁には何度も塗り直したであろう、企業の名前がペンキで描かれ、色あせていた。
(写真:15000人収容のジャイメ・シントラ・スタジアムは、1957年に建設された。)

 呂比須とは、共通の知人であるアトランタ五輪代表の松原良香と一緒に食事をしたことがあった。その時の印象は日本語が流ちょうなだけでなく、日本人以上に礼儀や心遣いの出来る人間だということだった。 

 スタジアム裏手の受付で呂比須の名前を言うと、中に通された。薄暗く狭い通路を歩くとスタジアムの中にある監督室についた。
「お疲れ様です」
 扉を開けると、日本語が部屋に響いた。そこには現役時代から変わっていない優しい笑顔の呂比須がいた。
 呂比須は1969年にサンパウロ州のフランサで生まれた。地元のクラブを経てサンパウロFCでプロ契約を結んだ。サンパウロFCでは出場機会に恵まれず、元ブラジル代表のオスカーに誘われて、87年に日産自動車サッカー部(現横浜F・マリノス)に加入した。その後、日立(現柏レイソル)、本田技研、ベルマーレ平塚(現湘南ベルマーレ)、名古屋グランパス、FC東京、アビスパ福岡へと移籍、02年に引退し母国ブラジルに帰国した。

 ブラジルでは非常に珍しいことだが、呂比須はパウリスタと長期にわたって仕事をしている。それはなぜなのか。
「最初は05年にマンシーニ監督の下でヘッドコーチをやってた。07年の4月までやっていたのだけれど、マンシーニがアル・イテハド・カルバから誘われた。一緒に行かないかと言われたけれど、断ったんですよ。私、外国に住むんならば、日本に帰りたい。ブラジルに戻ってきて、ドバイに行ったら意味ないでしょ?」

 前述のように、マンシーニと呂比須のいた頃のパウリスタは、コパ・ド・ブラジルの優勝という小さなクラブとしては驚くほど大きな成績を挙げていた。その指揮官に資金の豊富な中東のクラブが目をつけるのは当然のことだ。
 呂比須は一時、胆石の手術でサッカー界から身を引いたが、09年に再びパウリスタからヘッドコーチとして誘われた。そして昨年2月、成績不振により監督が更迭されると、呂比須が監督に昇格することになった。ぼくが訪れる一か月前のことだった。
「最初の6試合は全然勝てなかった。それから自分のやり方をやらせてくれないかとチームに掛け合った。今は、新しいコンセプト、システムに変えているところなんです。ようやく選手たちが私の戦術を理解し始めてきた」

 チーム作りには、日本で学んだことが役に立っているという。
「私が目指すサッカーはできるだけ高い位置でボールを獲って、攻める。そのためにディフェンスラインと攻撃のラインの距離は30メートルぐらいのコンパクトにしたい。日本でも欧州でもやっているサッカーですよね。今、力を入れているのが、練習をビデオで撮影すること。例えばシュート練習を撮影して、後からそれを見ながら、どうしてシュートが枠に行かないのか説明する。手の位置、蹴り方、そうした細かなところを修正していく。これは柏レイソルもやっていたし、フィリップ・トルシエさんもやっていた。ブラジルのクラブではあんまりやっていないと思います」

 毎日、呂比須は30分ほどのビデオを編集して、練習前に選手たちに見せるようにしている。コリンチャンス戦の勝利も完全にビデオ分析の賜ものだった。
「コリンチャンスをビデオで分析すると、中からサイドにボールが出て、そのクロスボールをロナウドが決めるパターン。もう一つは、ロナウドに長いパスを出して、彼が近くの味方に出して、短いショートパスのワン・ツーでシュートを打つ。その2パターンだったんです」
 幸いだったのは、ロナウドは全盛期を過ぎていたことだ。体重は増えており、以前のスピードはない。運動量が少ないのでパスコースは消しやすい。ただ、テクニックはあるため、彼の好きな形でボールを持たせないことを徹底させたのだ。
「ボランチからボールを出させないこと。そして飛び出してくる2列目の選手をフリーにしないこと。そういう選手がいれば、フォワードとか中盤とか関係なく、最後まで追いなさいと。選手たちは私が頼んだことを全て実行してくれた」
(写真:スタジアム前にあるバール。店主はコリンチャンスのサポーターで、なんとサーバーにはそのマークが。店主いわく「客からは見えないんだよ」)

 コリンチャンス戦の後、呂比須は朝4時までビデオを編集していた。いいプレー、悪いプレーを選手に指摘していく。そうすることで少しずつ選手が自分の考えを理解して、信じてくれるという手応えがあったからだ。
 ただ――。
 15年に及ぶ日本生活に慣れていた呂比須は、ブラジルで仕事をする困難さを改めて感じていた。

(つづく)

田崎健太(たざき・けんた)
 ノンフィクションライター。1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、出版社に勤務。休職して、サンパウロを中心に南米十三ヶ国を踏破。復職後、文筆業に入り著書多数。現在、携帯サイト『二宮清純.com』にて「65億人のフットボール」を好評連載中(毎月5日更新)。2010年2月1日『W杯に群がる男達−巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)を刊行、さらに4月『辺境遊記』(絵・下田昌克、英治出版)を刊行。






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