人間とは、サッカー選手とは、そしてチームとは、かくも短期間に、かくも大きな変貌を遂げることができるのか。わずか1年と少し前、手も足も出ずに、いや、出そうともせずに敗れた選手たちは、完膚なきまでに宿敵を叩きのめした。韓国に勝つ日本を見るのは初めてではないが、こんなにも強く、美しく、翻弄して勝つ日本を見たのは生まれて初めてである。見事な、本当に見事な勝利だった。
 何より驚かされたのは、攻撃面における意識の変化である。
 思えば、日本のサッカーは長く“アシスト至上主義”に毒されてきた。玄人と言われる層は、ゴールばかりに目を向ける素人を嘲笑い、アシストこそがサッカーの華であるかのように振る舞ってきた。「点をとるだけがストライカーの仕事ではない」という言葉もよく聞かれた。

 なるほど、嘘ではない。だが、ストライカーにとって最大の仕事は点をとることにあるのだという点を、長く日本人はボヤけさせてきた。献身的な守備をしていたから、確実にポストプレーをこなしていたから――そんな理由で、ストライカーが点を取れなくても温かい目を向けていた。

 だが、岡崎慎司は知ったはずである。点を取れないストライカー、特に外国から来たストライカーに、ドイツのファンはなんの価値も見いだしてくれないということを。李忠成も痛感したはずである。たった一つのゴールで、人生が激変することもあるということを。

 岡崎しかり、李しかり、そして香川しかり。ゴール前に侵入した彼らがまず第一の選択肢として念頭においていたのは、ゴールだった。仲間のための美しい献身ではなく、自分が輝くためのプレーだった。ボールをもらう瞬間から、いや、もらうためのアクションに入った段階から、彼らはフィニッシュで終わる自分をイメージしたプレーをしていた。そこが、目標なくプレーし、やたらバックパスを連発していた1年半前の日本代表との決定的な違いだった。

 しかも、いい意味でのエゴイズムを身につけた選手たちに交ざって、清武のような“典型的な日本人”もいた。素晴らしく美しかった本田のゴールは、いわば、欧米と日本の美学が合体したことによって生まれたものだった。なでしこがそうだったように、男子の日本代表も、いま、未知なる段階に足を踏み入れようとしている。
 いままで、そんなことを考えたことはなかったし、考える日がこんなに早く来ようとも思わなかった。だが、これほどまでに素晴らしい試合を見せられてしまうと、つい考えてしまう。

 スペインと戦ったら、どうなるのだろうか、と。

<この原稿は11年8月11日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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