あの衝撃は、半年以上経った今も少しも薄れてはいない。2012年ロンドンパラリンピック、男子ダブルス1回戦。そこで目にしたのは、車いすテニスではそれまで一度も目にしたことのないパワーショットだった。フォアハンドから繰り出されるそのショットは、とても小柄な日本人選手のそれとは思えないほどのスピードと威力があった。
「こんなすごい選手が日本にいたんだ……」
 大会前に取材しなかったことが悔やまれた。そして、彼が次のリオデジャネイロ大会を目指すことを強く願った。どうしても取材をしたい衝動に駆られていたのだ。そのプレーヤーこそが、眞田卓だった。
「眞田卓」という名前は以前から知っていた。いや、「知っていた」というよりも「見ていた」と言った方が正しい。車いすテニスでは、パラリンピックに出場するためには5月のジャパンオープンまでのポイントで日本人選手のベスト4に入らなければならない。そこで、世界ランキングをチェックしていた際に「Takashi Sanada」の名前を目にしていたのだ。

 ランキングだけを見ても、彼の勢いの凄まじさは簡単に見てとれた。それまで日本の車いすテニス界を牽引し、常に世界のトップ10に君臨してきたのは、北京、ロンドンと史上初の2連覇を果たした世界王者の国枝慎吾、そしてアテネでは男子ダブルスで国枝とともに日本車いすテニス界に初めての金メダルをもたらしたベテランの齊田悟司、この2人だった。そこに割って入ったのが眞田である。本格的にパラリンピックを目指し、海外遠征を始めて約1年で、瞬く間にベスト10入りを果たし、日本人では国枝に続くNo.2のポジションへと浮上したのである。

 “競技者”へのスイッチ

「もったいないなぁ、これだけできるのに」
 眞田がまだ本格的に世界を目指していなかった頃、車いすテニス関係者の中では、そんな言葉が飛び交っていたという。現在、眞田を指導する大高優コーチはこんなふうに語っている。
「彼は1、2度、私たちTTC(吉田記念テニス研修センター)が主催する練習会に参加したことがあったんです。見れば、動きもいいし、強打も打てる。『本格的にやれば強くなるだろうなぁ』と他のコーチとも話していたんです」

 実際、眞田は齊田や国枝を世界のトップ選手に育てた丸山弘道コーチから「パラリンピックを目指さないか」と誘われたことがあるという。だが、当時の眞田はまったく興味を示さなかった。
「パラリンピックを目指すとなれば、海外遠征にも行かなければいけません。自分は一人暮らしをしながら働いていましたから、時間的にも経済的にも、とても無理だと。テニス中心の生活は、自分の進むべきステージではないと思ったので、お断りしました」

 一方、大高コーチはこんな気持ちでいたという。
「本人にやる気がないのに、無理にやらせても仕方ないですからね。私としては、彼のスイッチが入るのを待っていました」
 その“スイッチ”が入り始めたのは、2010年のことだ。眞田は前年に現在の職場である埼玉トヨペットに転職をした。前職とはまったく違う業界だったこともあり、眞田は1年間、仕事に専念した。その間、テニスはほとんどお預け状態。楽しみとして出場していた国内の大会にも出なかった。それが、眞田のテニスへの思いを膨らますこととなったのだ。

 翌年、仕事に慣れたこともあって、眞田はテニスを再開することにした。1年間離れていたことで、テニスへの思いが強くなったのか、眞田はそれまで考えたこともなかった大きな目標を立てた。毎年、11月末から12月初旬にかけて行なわれる日本マスターズへの出場だった。そのためには世界ランキングで日本人上位8人に入らなければならなかった。果たして、彼は国内大会だけでポイントを稼ぎ、その目標を見事に達成させてみせたのである。

 自信が確信に変わった初の海外遠征

 それを機に、眞田の人生のベクトルが少しずつ世界へと向き始めていった。きっかけは、彼の活躍を知った会社の同僚たちが、車いすテニスプレーヤーとしての眞田に関心を示し始めたことにあった。大会に応援に駆け付ける同僚も現れ、社内で眞田の話は瞬く間に広がって行った。ウワサは巡り巡って、社長の耳にも入った。すると、社長から思わぬ提案が出された。
「パラリンピックを目指したらどうだ?」
 眞田にとっては思いも寄らないことだった。

「当時は何も知らなかったんです……」
 その言葉通り、眞田はパラリンピックを目指すための知識をほとんど持ちあわせていなかった。大会にはそれぞれグレードがあり、獲得ポイントや出場資格が異なること、サーフェスはハード、クレー、オムニという種類があることなど、すべてが初耳という状態だったという。当時の眞田にとってパラリンピックはあまりにも遠い世界だったに違いない。

「とにかく人に訊いたり、インターネットで検索したりしてパラリンピックの出場権を得るためにはどうすればいいのか、その仕組みを片っ端から調べました。それから自分のレベルを考慮したうえで、どの大会に出れば、どれだけポイントを得ることができるのか。どうすれば効率よくまわることができるのか。大会HPはどれも英語で書かれてありますから、もう必死でしたよ(笑)」

 かくして、眞田は日本マスターズからわずか2カ月後の2011年1月、初めての海外遠征、シドニーオープンに出場した。実はこれが、眞田にとって人生初の渡航だった。慣れない環境、言葉の壁。さらに対戦相手は自分よりも体格のいい外国人……普通なら怖気づいてしまうところだが、眞田はそうはならなかった。もちろん、初めての海外生活や、ままならない言葉に対して不安もあっただろう。しかし、ことテニスにおいて眞田は自らの力を信じ切っていた。特に最大の武器であるフォアハンドのショットには彼なりのプライドがあった。

「海外に行く前に、ある人に『オマエみたいなショットを打てる選手なんて、世界にはゴロゴロいるよ』と言われたんです。それを聞いて、『ぜひ、見てやろうじゃないの』と思いましたね(笑)。実際に行ってみて、確かに同じくらいの選手はいました。でも、その時思ったんです。『これからトレーニングを積んで、さらに磨きをかければ、オレは一番になれる』って」
 この物怖じせず、自らの力をコートで出し尽くすことのできるメンタルの強さこそが、1年という短期間でベスト10入りした最大の要因だと、大高コーチは言う。

 眞田がパラリンピックを目指し始めて約1年半後の2012年5月、ジャパンオープンの閉幕とともに、パラリンピック出場権をかけたポイントレースも幕を閉じた。その時点で、眞田は国枝に次ぐ日本人2位の世界ランキング12位。見事、ロンドン行きのチケットを手にした。眞田の真の実力が試される時が、いよいよ訪れようとしていたのである。ところが、待ち受けていたのは試練の連続だった――。

(後編につづく)

眞田卓(さなだ・たかし)
1985年6月8日、栃木県生まれ。埼玉トヨペットに勤務。中学時代、ソフトテニス部に所属し、3年時には県大会でベスト4に進出した。19歳の時にバイク事故で右ヒザ関節の下を切断。リハビリ時に車いすテニスの存在を知り、退院後に始める。2010年11月、上位8人に出場資格が与えられる日本マスターズに出場。翌年からパラリンピックを目指し、海外の大会にも出場するようになる。昨年、ロンドンパラリンピックに出場を果たし、シングルス・ベスト16、ダブルス・ベスト8の成績を収める。現在は2016年リオデジャネイロパラリンピックを目指している。

(斎藤寿子)
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