10月10日のジャマイカ戦、14日のブラジル戦を終えて、アギーレジャパンの戦績は1勝2敗1分けとなりました。勝ったジャマイカ戦を除いた3試合は2失点以上を喫しており、“守れないと勝てない”という事実が如実に表れています。ディフェンスの組織化はまだまだで、4失点を喫したブラジル戦では前線からの守備に改善の必要性を強く感じました。
 不十分だったプレスの意思統一

 ブラジルで最も脅威となる選手は、言うまでもなくネイマールでした。日本の選手も十分に理解していたと思いますが、終わってみれば4ゴールを叩き込まれました。日本はどうすればネイマールを止められたのか。ポイントは彼にボールが渡る前でボールを奪えるかどうかでした。どんなにネイマールをマークしていたとしても、後ろでパスを回され、その間に動き直されて彼にマークを外されればパスを通されるからです。

 日本はブラジルの選手たちに自由にボールを回され、ネイマールへのパスの供給源を潰すことができませんでした。なぜか。前線からのプレスに関する意思統一が不十分だったからです。相手のDFが余裕のある状態でボールを持った時は、FWには攻撃の進行方向を限定させるプレスが求められます。そして中盤、最終ラインと連係しながらボールを奪うタイミングをはかるのです。

 しかし、ブラジル戦ではFWが焦ってプレスをかけ、不用意にスペースを与えてしまっていました。これでは自らリスクを高めているようなものです。ボールを奪えそうな時と、そうでない時の対応を選手間で統一できれば、より強固で安定した守備組織を形成できるでしょう。

 守備の組織化を進める上で、代表のチームスタッフに守備専任コーチなるものを設置するのもひとつの手ではないでしょうか。監督の最終的な仕事は全体をコーディネートすること。監督が守備ばかりに時間を割くことはなかなか難しいものです。そこで、監督の守備理論を選手に浸透させるコーチがいれば、時間の限られた代表活動でも練度を高められると私は見ています。

 ここまでディフェンスの組織力の重要性に触れてきましたが、もちろん、個の能力向上も必須です。プレスをかけた時に、どのタイミングで体を入れてボールを奪いとる、もしくは突っつくのか。そういった守備の判断、スキルを高めるにはトレーニングあるのみです。各選手が意識して守備面における個のレベルアップにも取り組んでほしいですね。

 攻撃に必要なグループ戦術

 攻撃面ではブラジルにあって、日本に足りない要素が明確に見てとれました。それはグループ戦術です。ブラジルは3〜4人で局面を打開するグループ戦術を有効に使っていました。たとえば、ネイマールにパスが渡った時、複数の選手がボールをもらおうとパスコースをつくりだしていました。これによりネイマールのプレーの選択肢を増やし、日本守備陣に的を絞らせづらくしたのです。

 90分間を通して全員で遂行するチーム戦術とは別に、局面に応じて選手同士が意識を共有し、グループを形成して攻撃を仕掛ける。日本が世界の強豪と渡り合うためには、ブラジルが見せたようなグループ戦術を確立していかなければなりません。

 さて、ブラジル戦では本田圭佑や長友佑都がスタメンから外れたことで、“なぜベストメンバーを組まなかったのか”との批判が取り沙汰されましたね。私はアギーレ監督がベストメンバーを“組まなかった”というより、“組めなかった”と見ています。というのも、アギーレ監督は8月の就任からまだ3カ月。招集した選手のすべてを把握できていたとは思えません。

 そこでアギーレ監督はブラジル戦でも選手を試すことに徹したのではないでしょうか。今はアギーレ監督が自分のカラーをうまく表現できる人材を絞り込んでいる段階。今後、ザックジャパン時代からのメンバーが主力の多くを占めるのか、それとも新たな顔ぶれになるのか。焦ってメンバーを固定する必要はないと感じますね。

 またブラジル戦で試された選手たちにとっては、経験が大きな財産となったに違いありません。やはり、ベンチから試合を見ている時とピッチ上でプレーする時とでは、感じとるものに大きな差がありますからね。今回、柴崎岳、田口泰士、小林悠らは世界のレベルを肌で体感できたはずです。技術の高さ、スピード、勝負どころの迫力……。ぼろ負けという結果の中で、“これが世界か”という基準を知ることができたでしょう。その意味でも、選手を試せる今の段階で世界最高峰の相手と戦えたことは大きいと思います。

 アギーレジャパンの道のりはまだ始まったばかりです。ここから、どのようにチームの骨格ができ上がっていくのか。ここに注目しながら、11月の2試合(ホンジュラス戦、オーストラリア戦)を見ていきましょう。

●大野俊三(おおの・しゅんぞう)<PROFILE>
 元プロサッカー選手。1965年3月29日生まれ、千葉県船橋市出身。1983年に市立習志野高校を卒業後、住友金属工業に入社。1992年鹿島アントラーズ設立とともにプロ契約を結び、屈強のディフェンダーとして初期のアントラーズ黄金時代を支えた。京都パープルサンガに移籍したのち96年末に現役引退。その後の2年間を同クラブの指導スタッフ、普及スタッフとして過ごす。現在、鹿島ハイツスポーツプラザ(http://kashima-hsp.com/)の総支配人としてソフト、ハード両面でのスポーツ拠点作りに励む傍ら、サッカー教室やTV解説等で多忙な日々を過ごしている。93年Jリーグベストイレブン、元日本代表。

*ZAGUEIRO(ザゲイロ)…ポルトガル語でディフェンダーの意。このコラムでは現役時代、センターバックとして最終ラインに強固な壁を作った大野氏が独自の視点でサッカー界の森羅万象について語ります。
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