1979年に「西武」誕生以降、意外にも早稲田大学から入団した選手は一人もいない。その第一号となったのが昨秋、5位で指名された松下建太だ。高校時代、松下の頭にはプロに行くことしなかった。だが、プロ経験のある父親は断固としてそれを許さなかったという。繰り返し行なわれた話し合いの結果、彼は早大へ。そして昨秋のドラフト会議、「松下建太」の名前が呼ばれた瞬間、彼の頬には涙が流れ落ちた。4年越しの夢を叶え、プロの世界へ飛び込んだ松下に今の心境を訊いた。
―― ドラフトで指名されたときの気持ちは?
松下 : 應武篤良監督を始め、約100人くらいで講堂のテレビを観ていました。僕自身、半分以上諦めていたこともあって、講堂と自分の部屋とを行ったり来たりしていたんです。そしたら監督が「最後までちゃんと観ておけ! 部屋に戻るんだったら、ずっとそこにいろ」と。それで一番後ろの列で立って会議の模様を観ていました。そしたら西武さんから5位で呼ばれて……。その瞬間自然と涙が出てきて、もう立っていられませんでした。

―― いろいろな気持ちが込み上げてきた?
松下 : そうですね。高校の時からプロの世界でやりたいとずっと思ってきました。高校3年の時も志望届けを出すつもりだったんです。でも、父親が反対でした。というのも、父親自身、高卒でプロに行って、引退してから相当苦労したんです。だから僕には「まずは大学に行け」と。ちょうど早大からスポーツ推薦の話も来ていたのですが、僕としては大学は全く考えていませんでした。もし指名されなかったら、それこそ社会人に行ってプロを目指そうと思っていたんです。父とは毎日のように話し合いました。

―― 大学進学を決意する決め手となったのは?
松下 : 父に「野球が終わってからの人生の方が長い。野球ができなくなった時に、高卒と大卒とでは全然違う。オレ自身、嫌というほどそのことを味わっているから、オマエにこうやって言ってるんだ」と言われたんです。父親の気持ちを聞いて、大学4年間を経てプロを目指そうという気持ちになりました。
 ただ、それまでは本当に大学のことを全く考えていなかったので、早大がどういう大学なのか全くわかりませんでした。六大学ということすらイメージがわかなかったんです。だから入るまでは普通に大学に行くんだ、という感じだったんです。でも、実際に入ってみて、すぐに早稲田の存在のすごさを実感しました。とにかく周りの支えが大きい。野球部の先輩やOBだけでなく、全く関係のない人でもすごく親切にしてくれました。

―― その大学4年間で一番成長した部分は?
松下 : 高校の3年間は本当に野球漬けで休みはほとんどありませんでした。コンビニすら行けなかった。でも、大学では休みもあって、自分の時間をもつことができたので、いろいろなことを考えることができた。その中で考える力がついたと思っています。特に高校の時は我が強すぎて、周りの意見を聞かずに自分一人でやるようなところがあったんです。でも、大学に入ってからは周りの意見を聞くようになりました。これは僕にとって、とても大きなことでした。

―― 最も苦しかったことは?
松下 : 3年の春の明治大戦ですね。最終回、2点リードしている場面でマウンドに上がったのですが、サヨナラホームランを打たれてしまいました。それまで一度もサヨナラ負けを経験していなかっただけに、ショックは大きかったですね。そのことをきっかけに自分のフォームが全くわからなくなってしまいました。ピッチング練習をすることさえもできない日もあって、もうこれはピッチャーを辞めて野手に転向したほうがいいのかなと考えた時期もありました。

―― 何によって乗り越えられた?
松下 : 周りの方にいろいろと声をかけてもらいました。その中で、あるOBの方が歴代野球部員でプロに行った諸先輩の話をしてくれたんです。例えば青木宣親さん(東京ヤクルト)や鳥谷敬さん(阪神)も大学時代に悩んだ時期があったんだそうです。それでも辞めずに頑張ったからこそ、今の彼らがあるんだと。昨年引退された小宮山悟さんも相当苦しんだようです。それでも、4年時にはエースでしかもキャプテンまで務め上げられた。「お前だけが苦しんでいるんじゃないぞ」と言われて、なんだか自分の悩みが小さく思えました。

 潮崎&涌井への憧れ

 ピッチャーを辞めようと思ったほどの苦難を乗り越え、ようやくたどり着いたプロの世界。しかし、そこはこれまでとは比べものにならないほど厳しい競争社会でもある。果たして松下はどのようなピッチャーを目指しているのか。

―― 目指しているピッチャーは?
松下 : 高校の時からサイドスローだったので、明徳義塾高の馬渕史郎監督から「西武の潮崎哲也のようなピッチャーになれ」と言われていました。いつだったか、スポーツ番組で潮崎さんのシンカーの投げ方やボールの握り方をを紹介していたんです。そのビデオを毎日繰り返し見て、真似をしていました。でも、握り方はわかっても、見ただけではどういう感じで抜いていくのかというのはわかりませんでした。実際に投げようと思っても、全然イメージ通りにいきませんでした。今度、潮崎さんに直接指導してもらえたら嬉しいですね。

―― 自分のシンカーとはどう違う?
松下 : 潮崎さんのシンカーは投げた瞬間は「あ、高い。ボールだな」とバッターが思っても、ちゃんと低目ギリギリにストライクに入る。もう、落差がすごいんですよ。あんなの見たことがありませんでした。

―― 自分自身、ピッチングへのこだわりは?
松下 : 打者が嫌なところをグイグイと攻めていきたいですね。でも、コントロールへの自信は半々(笑)。これから磨いていかなければならない課題の一つだと思っています。

―― ピッチャーとして重要なことは?
松下 : 先発、中継ぎ、抑えで変わってくると思います。大学時代は主に中継ぎをやっていました。中継ぎは先発がつくった試合の展開や流れによっていろいろと変わってきますが、とにかくゼロに抑えて後ろにつなげていくということが重要な役割だと思います。

―― 先発と中継ぎ、希望しているのは?
松下 : 中継ぎは毎日どんな場面でも投げなければいけないですし、先発の場合は計算しながら投げていかなければならない。自分は特に希望はありません。任せられたポジションを思い切ってやりたいので、逆に全てのポジションをこなせるようになりたいですね。

―― ファンにアピールしたいところは?
松下 : 闘志を前面に出したマウンド姿やピッチングスタイルを見てもらいたいですね。よく周りから僕のピッチングは躍動感溢れていると言われているので、プロでも小さくならずに、大きく思い切って投げたいと思います。

―― 投げ合いたいピッチャーは?
松下 : 実はずっと涌井秀章さんと投げ合いたいと思っていたんです。というのも、高校の時に甲子園で対戦したことがあるのですが、自分がバッターボックスに立って「こんな球、見たことない」と涌井さんのボールに衝撃を受けたんです。勢い、キレ、スピード……全てが揃っていました。高知県の招待試合でダルビッシュ有さん(北海道日本ハム)と対戦した時も同じような衝撃を受けました。「あぁ、こういう人たちがプロに行くんだな」と二人を見てそう思いました。涌井さんはこれから間近で見ることができるので、いろいろと勉強させてもらいたいと思っています。

―― 対戦したいバッターは?
松下 : 青木さんや鳥谷さんら早大OBの方とは対戦したいですね。その時の調子によって投げるボールは違うと思いますけど、その時一番自信のあるボールでどんどん攻めていきたいです。特に三振とかは望んでいません。とにかくアウトにできれば自分に自信がつくと思います。

 シニア時代は中田翔(日本ハム)とバッテリーを組み、高校時代は大学No.1野手として中日に入団した中田亮二(亜細亜大)がチームメイトだった。大学では今もなお人気を博す斎藤佑樹がいた。そして西武には最速150キロ超の剛腕サウスポー菊池雄星(花巻東高)がいる。常に注目選手が隣にいる野球人生を送る松下。「テレビカメラがどこを向いていても気にならない」とその表情はいたって冷静だが、もちろん彼らに負けるつもりは一切ない。いよいよ始まるキャンプでアピールし、開幕一軍を目指す。

<松下建太(まつした・けんた)プロフィール>
1987年8月17日、広島県生まれ。小学5年から野球を始め、鯉城シニア時代には中田翔とバッテリーを組む。明徳義塾高校では1年夏からベンチ入りし、春夏あわせて3度甲子園に出場した。早稲田大では1年春からベンチ入り。2年春には最優秀防御率(0.82)を叩き出しタイトル獲得した。179センチ、75キロ。右投右打。

(聞き手・斎藤寿子)